をれをずブログ

あええええばぶばぶ

日本の学年式教育の残酷さと、量産される勉強嫌いな大人

 生まれた時から今に至るまで、母は底辺校の教員だった。小さい頃から、様々な生徒の話を断片的に聞いた。一口に底辺校と言っても生徒のレベルは様々で、公立大学に行ける生徒から、四則演算ができない生徒まで存在する。四則演算ができない、あるいはそれに類するような生徒たちは、あまり良い高校生活を送っているとはいえない。色々なパターンがあるが、典型的には、赤点を取り、登校しなくなり、転学する。    
 さて、九九すら怪しいような彼らが、何故高校にいるのだろうか? それはひとえに、中学校を卒業できてしまうからだ。小中学校の卒業要件に九九の試験はない。だから、勉強しなくても卒業できてしまう。このような生徒は高校になってはじめて、勉強という壁にぶち当たる。九九という段差を乗り越えたことのない子どもが、因数分解まで大きくなった段差、いや、崖にぶち当たる。

 勉強しなくても卒業できる学校制度を、君はどう思うだろうか。

 別の話をしよう。
 私は進学校にいたけれど、それでも勉強が嫌いな生徒が大半だった。高校生の私にはあまり理解できなかった。勉強がめんどくさいとこそ思えど、嫌いだと思ったことは一度もなかった。新しいことを知り、理解する行為を、どうしたら嫌いになるのか分からなかった。みんななんとなく、周りに同調して言っているんだろうと思っていた。
 大学生になって、彼らの気持ちは、少し分かった。分からないまま進んでいく不快さ。自分のペースで勉強できない不快さ。さらに自分の実力や容量をはるかに超えた要求をされる苦痛を知った。私が高校生のころ勉強を一度も苦痛に感じなかったのは、快適にこなせるだけのバッファがあったからだ。幸い私は、一般的な勉強と大学の勉強を切り分けるだけの知恵があったが、しかし、大学の勉強は嫌いになった。

 勉強できなくても進級できる学校制度を、君はどう思うだろうか。
 私は残酷だと思う。

 いまの日本の教育では、みんな仲良く一学年ずつ、誰も落第せずに進んでいく。一見幸せに見えるこの景色の中で、残酷なことが起きている。この教育の最大の欠点は、一度ついていけなくなると、一生ついていけなくなることだ。何かのきっかけで一度ついていけなくなっても、そのまま次に進んでしまう。当然、今度はますます分からない。だけどまた進み、進級し、何も分からないまま、やがて卒業する。落第のほうがよほど優しい。
 本当は彼らを卒業させてはいけないのだ。進級させてはいけないのだ。それは彼らのための行為に見えて、その実、彼らから勉強の機会を奪っていることに他ならない。そしてそれは結果的に、50分を6コマ、毎日5時間机に縛り付け、わけの分からない話を聞かせる状況を作ることになる。実質的な勉強の機会を奪っておきながら、形式的な勉強を押し付ける。生徒は毎日5時間かけて、勉強のつまらなさを学ぶだろう。社会による虐待といっていい。
 高校も例外ではない。高校の試験は、生徒を合格させるために簡単な問題が30点分用意されている。仮に赤点になったとしても、追試で必ず合格させるようにできている。流石に四則演算ができないレベルでは普通科を卒業するのは難しいが、ある程度は掬われるようにできている。落第があるようで、実際は小中学校とほとんど同じ構造だ。
 制度上は落第が存在する高校でも、生徒を卒業させるように力が働く。なぜか。このようなケースでは、高等学校は教育機関ではなく一種のキャリアパスとして働く。つまり、生徒に高卒資格を与えるだけの機関と化す。社会がそのように要請しているからだ。社会が勉学経験の有無に関わらず、高卒資格の所持を要求する。
 そういった生徒の進路が大学でなければまだいいが──いや大学でないとしても、ただ学校で腐らせておくだけの時間に意味があるのか──そもそも────

 話が逸れたが、本題は、画一的な学年式教育はやめようということだ。この方式では落ちこぼれが発生し、勉強が嫌いになってしまう。解決策は、単純には単位制だろう。単位制は、上記の問題を概ね解決する。
 単位制にすることで、勉強したくない子どもがいつまで経っても学校に行かないとか、20歳になったのに中学校も卒業しないとか、そういったことも起こるだろう。遊んでないでさっさと勉強しろ、と言いたくなると思う。しかし、そのような子どもに対しては、無理に押し付けるのではなく、待ってあげるべきだ。一度社会経験を積んでから、20歳で中学卒業。そういうルートも大いに結構。大事なのは早く学ぶことではなくて、自分のペースで学ぶことだ。社会経験から、あるいは遊びの経験から、いつか内発的動機が出てくるだろう。それを待ってあげたい。待ってあげるべきだと思う。勉強が嫌いにならないよう、自分のペースで学ばせてあげたい。それが結果的には、学校で勉強を終わらせない、生涯に渡って学び続ける精神を育むのだと思う。

「アイカツ! 10th STORY ~未来へのSTARWAY~」雑感 ※ネタバレ有り

※ネタバレが豊富です

 

 

は? これ実質不良品ですよね。替えてもらっていいですか。

 これがアイカツ5th season 最終話か……
 全体としては良くも悪くも期待通り。理想の最終回という感じ。設定の方で思い切ったのでしょうがない。初期を思わせるようなドタバタとかハラハラドキドキはなし……だけどまあ、みんな大人になったということで。これが渋い大人の映画ですよ。

(追記: ↑これ、映画としては起伏がなくて物足りないな、とおもったけれど、ドキュメンタリーなんだなと夜に思いました。)
 未来へのSTARWAY(曲)は初見なのにまさにアイカツのOPだと思わされる力があるね。よく考えたら中学生のころにアイカツ5th seasonで聴いてた気がする。だから聞き馴染みがあったんですねー( 
 ステージ版ではくるくる回るのかわいかったね。あおいのトコトコ走りも好き(ド定番)。やっぱり一番かわいいのはソレイユなんだよね。
スターライト時代から未来へ飛んで、また帰ってくる構成。ライブを最初と最後に持ってきたいから、最後に持ってこれるのは卒業ライブかソレイユのライブなんだけど、テーマ的に卒業ライブ確定ということで。

 時間が飛んで蘭がBMWから下車するシーン、現実なのか撮影なのか分からなくて劇中で一番緊張した。蘭かっこいいねえ。いや蘭……お前はかっこよくなると信じてたけど、なりすぎだろ。そこまでやれとは言ってない。BMWに乗って、カクテル作って、ってそれは30後半とかでいいんだよ。22なんだから、トンカツをいつでも食えるくらいになりなさい。でもなんだかんだ蘭が一番好きだなと思いました。お酒飲めるようになります。
 いちごはやっぱりライブだよね。それは1期か2期かに固まってからずっとそうで、本当はいちごに卒業なんて関係なかったのだと思う。それよりも環境や周囲が変わってしまうことが重要で……だから蘭への「一緒に住む?」はあながち冗談でもなかったのかもな、と思ったり。ところで本当に一緒に住んでるのとてもいいですよね。とてもいい。スターライトでは別の部屋だったし、あおいと蘭の組み合わせが多かったしね......。実は個室が3部屋あって、あおいも来れます!とかだともっといいね。3つ目のドアが映ってるカットがあったりしませんか? なくてもあったということでお願いします。あ、いちごのニュー髪型アンチなので6th seasonでは変えてください。
 あおいパート……少なすぎない?そもそも何学科かもわかんないけど、文系だと思うから、ゼミのシーンとか、あるいは映画系の学科とかならそういうシーンがあってもいいのでは。あまりに描写が少ない。さては監修神崎美月か?
あそこどこの大学だろう。カリフォルニア大学?まあどこでもいいけど、博士後期課程の出願をしようと思います。
 あおいはボブもかわいいけどやっぱりサイドテールが最高に可愛いと思います。6th seasonでは直してください。つかこいつら部屋着でへそ出しすぎだろ。12月、なんだよね?
 神崎美月はなんでロスにいるの? 失踪? やっぱりか。そうだと思ったんだよね。元祖失踪系アイドルだからね。
 らいち、イケメンになったね。アイドル大好きサッカー青年とかだと嬉しいなと思います。ところでお前が小学生のときの話なんだけど、
 背景、酒カス伯爵様。お元気でしょうか。この手紙は、酔っていない時に読んでください。
いやお前、何があった? 仕事が辛いか? ドラキュラキャラに疲れたか? まあ話聞くから、二郎系行こうや。あ、とんこつラーメン、ニンニクマシマシで。
 Yes, かえで肉!
 しおん、お前だけキーホルダーが3つも売れ残っていたからSTAR☆ANISに入らなかったのがお前の人生で最大の過ちだと思います。
 1カットしか出れなかった雑魚どもは死ぬ気でアイカツしといてな。花音さんですら名前が出て1カットあったからな。ところで地下の太陽さんを見なかったんですけど、冬眠してましたか?


 ステージについては全体的に、何年も経つと表現力が上がるなーとおじさんはうれしくなってました。また聴きたいね。4年後のみんなのステージ、待ってます。

 

 受け取った勇気でもっと未来まで いけるかな。いけるといいな。いけそうとは言えるか。もうちょっと未来までいけそうなので、みなさんの未来もまた見せてください。


※意識が朦朧としてる中書き殴ったので乞う許す間違い

創作の世界におけるAIの台頭に我々はどう向き合うべきか?

 こんにちは。をれをです。ここ最近、創作の世界におけるAIの台頭がめざましいですね。特に画像の分野でMidjourneyStable Diffusionmimicといったサービスが雨後の筍のようににょきにょきと芽を出してきました。

 まあすごいので、知らない人は見てみてほしい。

midjourneyのツイッター検索

stablediffusionのツイッター検索

(mimicは公式サイトから見れます)

 小説の世界でも、AIのべりすとみたいなものが出てきていて、作曲についても、詳しくありませんがいろいろなサービスが出ているようです。画像、文、音、と作れるのなら、まだ人間にしか作れない領域ってなんだろう、ということを考えたくもなってきますが、それはおそらくきりがないので、逆にAIが進出しやすい分野で、AIは何ができるのか、我々はどう付き合っていくべきか、ということを考えます。

 

1 AIは何ができるのか

 AIってなんかスゴそう!なんでもできる魔法の箱なんでしょ?えー怖い!いつか人間に反逆するの!?!?

とか思ってる人いるんじゃないでしょうか。夢のない話、AIというのは、所詮アルゴリズムであり、コンピュータプログラムです。データから結果を出すプログラムだと思えばよくて、画像生成の例で言えば、与えた画像を学んで、それを組み合わせて出力する、と思えばいいです。なのでデータに(部分的にでも)ないものを出すことはできないし、画像を作るAIが人間に憎しみを抱くこともありません。

 

2 AIは創作が「得意」なのか?

 ぼくの認識では、AIは創作が苦手です。AIが最も得意なのは、もっと単純な二値分類とか、ラベリングとか、簡単な予測であって、創作は難しいことのはずです。ではなぜ、いまAIは創作をしているのか。それは、二値分類タスクとかより難しくて、かつ難しすぎないことだからなのだと思います。つまり、今まで創作は難しかったのが、技術の進歩により、手がかかるようになった、というところだと思います。

 以前、創作というのは人間ができる最高の知的な仕事なのだと思っていました。しかし、AIの動向を見て、それは違うと考え直しました。創作はAIが比較的進出しやすい分野のようです。

 「AIは絵を描いてないで確定申告をしてくれ」のような冗談がよくありますが、このような単純作業はAIよりも単純なシステムで解決すべきです。よってAIは進出しません。じゃあもっと知的な仕事、例えば友人と話したのが、要件定義をして俺の仕事を奪ってくれ、というような話でしたが、このような高度な作業をプログラムで実現する術は全く思いつきません。いろいろ考えて、最終的に出した結論は、誤解を恐れながら言うので先の方まで読んでほしいのですが、創作というのは実はそれほど高度な知能を必要としない、AIが進出可能なちょうどいい知能のラインだということでした。特に都合が良いのは音楽と画像で、これらは多少歪んでようが、変なノイズが入ってようが、気にせず鑑賞することができます(デスメタルの自動生成がありましたが、そういうことでしょう)。

創作というのは、そもそも人間の鑑賞が前提であり、失敗が許され、多少のノイズが気にならず、利益や人命などが直接に関わらないので、AIが簡単に入り込めるのだと思います。要件定義に変なノイズが入って、おかしな要件が入っていたらどうでしょうか。自動運転は、もうだいぶできるというのに、なかなか導入できない。だから創作系のサービスがいち早く出てきたのだろうと思います。

 で、誤解を解くために言っておきたいのですが、創作を知能の要らない低俗なものだとは全く考えていません。レベルの低い創作はそれなりの知能で可能で、だからそこをAIが攻めていて、しかしその先は青天井なのだろうと思います。あなたが創作者なら、AIよりいいものを創れますよね(軽率な焚き付け)。

 

3 AIはどこまでできるようになるのか?

 現状は、素人より上手いが、プロには及ばない。しばらくは、その間を這い上がっていくのだと予想しています。囲碁将棋などを見るに、いずれプロレベルになることは、可能性としてはあるでしょう。基本的に、人間にできることは、それなりに遠い未来、機械にもできる可能性があると見ていいです。その先はよくわからない。っていうかその先って何?

 

4 AIは何をどう変えるのか?

 AIといっても、基本的には、新しい機械ができたということなので、工程の一部が自動化されるということです。どういう工程が自動化されやすいかは……まあ、わかりますよね。単純で、知的でなくて、どうでもいいところから、です。画像生成でいえば、漫画やイラストの背景とかでしょうか。ものによるでしょうが。

 

5 AIとどう付き合うべきか?

 ぼくはこの問題を考えるとき、いつも産業革命の例をとります。画像生成が盛んになってからは、写真の例もよく考えます。写真のほうが似た例なので、産業革命は適当に流しましょう。

 産業革命から今の人が学ぶべきことは、機械が出てきたらそれに従うしかないということ、だと思います。より良い織り機や紡績機、つまりより自動化された機械が出てきたとき、手作業で対抗することは不可能です。これは歴史的事実で、次もそうなるでしょう。そのような機械が出てきたら、共存するしかありません。世間は、AIの公開を停止しろ、とラッダイト運動を起こすほうに寄っているようですが、封じ込め作戦は、一つが檻から飛び出してきたら終わりですので、この運動に勝機はないと思います。

 機械で作られた安い織物があるのに、職人の高い織物を買う人がいますか? AIでイラストを無料で、60秒ばかりで作れるのに、イラストレーターに頼む人がいますか? 品質次第では、こういう世界になり、また、その世界になる流れを止めることはできません。我々には、共存の道しか残されていません。

 さて、今度は写真の例を取りましょう。19世紀、カメラが普及しました。当時、ヨーロッパでは肖像画を描いてもらう文化がありましたが、当然、カメラの普及と共に、写真に代わっていきました(早くて安く写真が取れるのに、画家に頼む人がいますか?)。では、肖像画を描いていた画家たちはどうしたのか?

 その答えの一つが、印象派です。一部の画家は新たな表現に挑戦しようと、印象派を作っていったと言われています。で、他の人はどうしたかというと、ここから先は完全な予想なのですが(誰か資料を知っていたら教えてほしい)、選択肢としてありそうなのは、転職、写真家への転身、より優れた写実画への挑戦、といったところだろうと思います。画家であれば当然今までのスキルが活きますし、写真家であっても、構図やポーズなど、いろいろ活かせる点はあるでしょうから、転職以外の選択肢であれば、スキルが無駄にならない点が嬉しい点ですね。

 

 仕事を喰う機械が出てきたときどうするか。いま、3つの選択肢が示されました。

  1. 機械にできないことをする
  2. 機械を使う
  3. 仕事を替える

 これを、画像生成に置き換えて考えます。

5-1 機械にできないことをする

 まず、機械にできないことは、現時点ではありすぎて数え切れませんが、今のところコントロール不可能なのが一番の問題かなと思っています。お題に沿って絵を描いてもらってはいるけれど、その程度。機械にできないことはそのうち減っていきますが、根本的にできないのが「データにないものを作る」ことなので、新たな表現を作る仕事は無くならないでしょう。表現をやり尽くすまでは。

5-2 機械を使う

 イラストレーター、画家として培ってきたスキルを活かして使う側になっちゃおうぜという話。現時点で有り得そうなものを挙げてみる。現実にはいろいろ組み合わせるんだろうな。

  • イデアを出すアイデア
  • AIの出力をコントロールする、プロンプト職人
  • AIの出力を選定する、目利き
  • AIの出力を修正する、修正屋
  • AIを部分的に使う人(背景だけAIに描かせるとか)

5-3 仕事を替える

しかしながら、1, 2のいずれにせよ、今までの仕事とは変わってしまうでしょう。それは避けられません。俺は手で糸をよるのが好きだったんだ!機械なんか触りたくない!って人は潔くやめるか、趣味にしたらいいと思います。まあそれは仕事への姿勢じゃないよね(鋭利な刃物)。

 

6 この変化って誰が嬉しいの?

 嬉しかねーよ!!バカ!!アンポンタン!!!技術の発展が嬉しかったことなんて有史以来一度も無いんだよ!!!

 いや、それはあったか。。。

 機械で自動化される分、人間は他のことに集中できるから、今まで到達できなかったところまで到達できる。それは確実に、嬉しいことだと思う。

 でもやっぱり、悲しいことも多い。誰もがかわいい絵を簡単に作れるようになったらぼくは嬉しいけれど(このブログのアイコンも自動生成だし)、努力した人の特権のようなものが無くなるようで寂しい。現役の画家やイラストレーターのやる気を削いだり、学生のやる気を削ぐようなことになったらすごく悲しい。いつも思うけれど、技術は仕事をつまらなくする。

 

7 それでも世界は変わっていく

 正直なお気持ちの話、ぼくはこの世界が息苦しい。なにもかもやり尽くされて、なにもかも溢れている。おいしい発見は既にされているし、楽しい作業は機械がやっている。インターネットのない時代で、地図を両手に歩いてみたかった。科学も芸術も未開拓だった18世紀、19世紀に生きてみたかった。あるいは、もっと未発展で情報の少ない、狩猟採集や農耕時代を生きてみたかった。きっともっと単純なことが楽しかっただろうなあ。

 でも、でもね。それでも世界は変わっていく。文明は進歩し、決して後戻りしない。後戻りできない。それでも生きていかなきゃいけないなら、豊かに楽しく生きていきたいから、だから、無責任に言うけれど、今まさに変化に立ち会ってる人たちには、機械破壊運動なんかしてないで、シンギュラリティに腐ってないで、その変化の中で、豊かに、楽しく、美しく生きる様を見せてほしい。そうして強い人間の姿を教えてほしい。この記事はそういう人間讃歌ということにして、人間さんが人間讃歌を歌っているということにして、締めたいと思う。

 

「生きていたくない」の話をしよう

生きていたくない

 生きていたくない。自殺願望に疎い生存主義の読者に説明すると、これは「死にたい」のことだ。しかし、死にたいと言うと、「死ぬ勇気もないくせに」だの「死にたいは生きたいの裏返し」だの訳の分からない厄介な絡みが発生するので、生きていたくないと表現している。

 気を利かせて「自殺したい」という表現を使うこともあるが、こちらも同様に「自殺する勇気もないくせに」「自殺することなく死の状態がほしいんでしょ」と面倒な指摘を受けてしまう。そこで「生きていたくない」の出番だ。自発的に死ぬような度胸がなく、しかし生きている状態を維持したくない、という希望を的確に表現できる奥ゆかしい日本語が「生きていたくない」なのだ。

なぜ生きていたくないのか

 この現象は幸福と苦痛のバランスで説明できる。

 正常な人生を考えると、これは幸福と苦痛が普通の量であり、バランスが取れた人生である。このバランスを保ったまま、幸福と苦痛を共に多くすると激動の人生になるし、共に少なくすると安定した落ち着いた暮らしになる。しかし、これらは共にバランスの取れた正常な状態である。

 幸福と苦痛のバランスが崩れたものが、異常な人生である。異常な人生は、観測できる限りでは苦痛過多もしくは幸福過小によって作られる。苦痛過多もしくは幸福過小な人生においては、人生の実行者はあまりに大きな苦痛に耐えきれず、あるいはあまりに少ない報酬に絶望し、生存の意欲を失う。

 たとえば、コンビニバイトをして時給10円だったら誰でも働きたくないものだろう? それと同じで、人生をしても幸福が少なすぎれば続けたくもなくなるものだ。

楽しいことがない

 私は基本的に後者、幸福過小だという人生認識を持っている。理由を挙げればきりがなく、カードゲームのデッキを構築できる勢いだが、中でも切り札は「楽しいことがない」であり、発動に成功すると死にたみカードバトルに無条件で勝利する。

 「楽しいことがない」の発動条件は、プレイヤーに何一つ楽しいことがなく、かつ、そのような過去の経験から、未来においても楽しいことが期待できないことを帰納的に知り、希望を手放した状態でターンエンドすることである。

自殺したい

 前の二項を踏まえると、一旦いろいろな不安を無視すれば、当然、自殺したいと思われる。すると、いつどのように自殺するか、ということが問題になる。

 まず、「いつ」という問いについてだが、思うに選択肢は2つあり、今このあたりで死ぬか、あるいは30~40歳程度に死ぬのが良いと考えている。

 人生の目的は、正常な人生においては幸福の最大化であるが、異常な人生においては苦痛の最小化となる。異常な人生では、基本的に幸福は期待できず、しかし苦痛は時間経過に従って増大していくため、原則としてできるだけ早く人生を終えるのが最適解となる。

 また、異常な人生を与えられた身として、少なからず社会に対して不満や憎悪を抱いており、当然、復讐したいと思われる。しかしながら、生存主義者個人にはなるべく損害を与えたくないという程度の良識は備えており、大々的に報道されるような無敵の人の典型的な復讐は避けたい。すると、扱える中では、自殺が最も強力な武器となるため、自殺を通して社会に復讐するのが良いだろう。

 しかしながら、こんな人間、無敵の人になるような人間は、死んだところで社会に何も損害を与えられない。そもそも無能であるし、これから人生を続けたところで、日々新たな無能が露呈するだけで、社会に役立つことはない。そのようなことを考慮すると、だらだらと生き長らえるよりも、今、学生として将来を期待されているうちに自殺するのが、一番価値があるように思われる。そうして、有望な若者の自殺が社会に損失を及ぼしたと錯覚させることが、社会に対する復讐のうち、無能にできる一番のものであると思われる。

 次の局所解である、30~40歳程度で死ぬルートだが、これは人生の後半を切り捨てて前半にエネルギーを集中させ、それによって苦痛に勝る幸福を得るという挑戦的なルートである。後半戦を考えなくて良いため、仕事の将来性やキャリアプランなどを無視でき、人生を有利に進めることができる。このルートの欠点は、やはり幸福を獲得するのが非常に困難であること、また、運良く幸福を獲得できたとしても、体力的に40歳程度が限界になりやすいことである。

 さて、もう一つの問い「どのように死ぬか」に対してだが、どのように、と言われても、なるべく死に損なう危険がなく、なるべく痛みと恐怖のない方法、というほかにない。実現は難しいが、安楽死が理想だろう。

安楽死

 結局、人は簡単に死ねない。死ぬのが怖い。一番怖いのが、自殺に失敗すること。自殺に失敗し、いまよりも惨めな人生が発現し、次なる試みが阻まれることが、何より怖い。あるいは、万が一、死後の世界や魂のような超越的なものが存在して、自殺が自分に何か大きく永久的な不利益をもたらすことが怖い。

 安楽死。「安らかに」「楽に」「死ぬ」。こんなに良い三文字が並んでいるのだから、きっと良い性質をもっているに違いない。雪月花の仲間ということも考えられる。

 

 

美しい物を見ながら死にたいのならば、水中都市に攻めこめばいい。

シーマイン DM-01

インターネット投げ銭分化と「支援する」ボタンが好きじゃない

※不快な記事の可能性があるので閲覧注意


 「支援する」ボタンが好きじゃない。画面にでかでかと表示されると邪魔。楽しんでるときに金の話をされると冷める。──というのもあるけれど、よくよく感情を分析してみると、表示法どうこうというよりも、そもそも支援行為自体が好きじゃないらしい。
 なぜだろう。クリエイターへの支援は昔からある。ルネサンス期の支援は特に有名だ。メディチ家をはじめとするパトロン達の援助がルネサンスを支えた。ルネサンス期における画家のパトロンや、あるいはパトロネージュという行為に対しては何の違和感もない(宗教的な背景があるので現代の価値観で考えるのはおかしいかもしれないが)。しかしどうして、現代におけるパトロネージュには大きな違和感を抱くのだろう。

 簡単な思考実験をしてみる。好きなクリエイター数人に対して、自分が支援することを考える。YouTubeのスーパーチャットのようなインターネット投げ銭、pixiv Fanboxのような月額制会員制度の二通りの方法で支援をする。そこで、自分がお金を出してもいいと思える条件を考える。
 すると意外なことに、お金を差し出すことに対してはあまり抵抗がないようだ。「このお金が活動費になるなら(自分の生活に支障のない範囲で)いくらでもどうぞ」というのが僕の感情の出す結論らしい。活動費になる、というのが大事な条件で、既に大金を抱えているクリエイターを支援する気にはならなかった。また、ギャンブルや一時の享楽のようなものに使われるとすると、それも嫌なようだ。真面目だなコイツ。まあ、自分の出した金なのだから、自分の思い通りに使わせたいという心理が働くのは妥当だろう。

 さて困った。そうしたら、この違和感はどこから来るのだろう。皆が皆ギャンブルをやってるわけでもあるまいし……あるまいか? なんだかやってるような気もするが、ともかく、原因があるとしたら逆の行為なのだろう。つまり、お金を受け取る行為に対して違和感を感じているということになる。では今度は逆に、お金を受け取ることを想像してみよう。
 これを考えた途端に心がざわついた。金がほしい、くれるもんならいくらでもくれ、という卑しい感情がみるみる湧いてきた。卑しい自分にムカついたので少し想像を具体的にしたら、今度はこのお金を受け取っていいんだろうか、という得体のしれない恐怖が浮かんできた。やはり適当に考えても埒が明かないので、ちゃんと思考実験をする。先ほどと同じ実験設定で、自分が支援される側となり、お金を受け取れるかを考える。
 まず、インターネット投げ銭に関してだが、これは受け取れないと思った。はっきり言って構造がおかしい。お金を受け取っておいて名前を読み上げてお礼を言って終わりか。「スパチャありがとうございます!」などと礼を言うのはいいが、その言葉に何の価値があるのか。そしてそれを全世界に配信してどうするのか。お礼では釣り合わないし、お礼を言うにしてもその人ただ一人に対して言わなきゃな。
 少し脇道に逸れるが、ここでぼくが混乱したのが、現実世界での投げ銭との違いだ。実はぼくは路上パフォーマンスが結構好きで、いいなと思ったら軽いノリで投げ銭したいタイプだ。考えたところ、どうやら投げ銭の是非を分けるのは、投げ銭する対象がパフォーマンスなのかただの配信なのか、ということのようだ。パフォーマンスに投げ銭するのはありだが、ただの配信(=人そのもの)に投げ銭するのは違うな、という感覚があるようだ。だからネット配信であっても、RTA in JAPANのようなパフォーマンスの配信に対して投げ銭するのは全く違和感がない。
 話を戻して、次に、月額制支援に関してだが、これは特典によるようだ。自分が金額に見合うコンテンツをメンバーに限定公開できるのなら堂々と受け取る。そうでなくて、コンテンツはオマケで支援が主となる形態なら受け取れない。
 支援される側の思考実験を通して卑しい自分を思いとどまらせたのは、お金を受け取る以上相手個人に価値を返さなければならないという考えだった。月額制は毎月のコンテンツに対する対価だし、投げ銭はパフォーマンスに対する対価だ。財に対してお金を頂くのであって、自分という人を支援するお金は頂けない。お金を貰えるのは嬉しいけれど、しかし対価なしに受け取るのは誠実じゃない。

ここまで考えると、一つ目の結論がひっくり返ってくる。自分が他人を支援するのは構わないけれど、それを受け取る相手は誠実じゃない。逆説的だが、自分が支援したい相手は、それを受け取った瞬間に支援したい相手ではなくなる。これはぼくが真面目すぎるからかもしれないけど。

インターネットの支援に関するぼくの結論。
「もらえるならもらっておこう」は誠実じゃない。お金を払いたい人はいくらでもいるかもしれないけれど、だとしてもちゃんとした形のものを売ってその対価としてお金を受け取るべき。払う側は気持ちで払えるんだけど、受け取る側は何のお金として受け取るの? っていう話。
誠実でありたいから、そういうことはしない。仮にそういう立場になっても、気持ちには気持ちで返したいし、お金にはサービスで返したいね。そんな感じ。

 

 

 

……果たして、ルネサンスにおいて画家はパトロンに誠実だったろうか。こんな価値観は現代の市場や貨幣経済に縛られたものじゃなかろうか。価値(財)とお金の交換というのはこの社会の原則だけど、常にそれが成り立つわけじゃない。

お金を渡していいことをした気分になって、それが幸せって人もいる。それって宗教*1と同じ構造に見える。お金を払っても見返りはない。徳を積めるとかそういうのはあるかもしれないけど、社会で認められる実体としてはない。だけど払う人がそれで幸せならそれでいい。それも一理ある。人間って愚かだね。でも愚かな方が救いがあるのかもしれない。宗教と考えると、人に支援するのも悪くはないな。

 

*1:でかすぎ概念。市場から切り離されたもの程度の意味で使ってるので危険である

なろう風タイトルジェネレータを作った話(作っただけ)

 

 をれをです。大学院の課題でちょっと面白いものを作ったので、ブログで公開したくなりました。出したレポートを公開するのでよかったら見てください。PDFの最後に実際に作ったタイトルがあるから見てほしい。
 大学(院)の課題で人間の目に耐えうるものを作ったのってはじめてで、ちょっと達成感ありました。同時に、教員に見られるだけじゃつまんないっていう感情も芽生えて公開に至りました。まあ他人の作ったものをちょっと変えただけなんだけど。
 それにしても転移学習って魔法みたいでいいですね。同じコードを違うデータに適用するだけでいろんなものが作れちゃう。実用に耐えうるかは置いといて。

 ジェネレータ自体の公開もしようかなとか思ったんだけど力尽きました。個人サイト作ってこういうの公開できたら面白いだろうなあとか最近考えてます。たぶんそんな気力ないけど。2億円当たったらやります。そんな感じ。

参考にした記事等:

ちょっとブログを書きたくなった

ちょっとブログを書きたくなった。別にこれといった話題はないけど。そういう日、あるよね〜〜。

 

近頃ずっと忙しくって、日中よく働いている。その反動で、夜になると貪るようにTwitterをする。Twitterって、お菓子だ。いつも食べていると飽きるけれど、たまに食べるとおいしいね〜。好きでよく食べるチョコバーがあるんだけど(チョコバーって書くとなんか安っぽく見えるね)、最近食べすぎておいしさが感じられなくなっちゃった。またしばらく経ってから食べよう。本当においしいんだよ。思い出せないけど。

 

 

 

家族に話しかけられてちょっと執筆が中断された。文章を書いてる時に話しかけられると、頭がリセットされた感じがする。人って話したい時はどっか行っちゃうのに、一人でいたいときには話しかけてくるよね。もちろん、実際にはそういう体験が他よりも記憶に残りやすいだけなんだろうけど。用が済んだら、ガラガラって扉を締めて行っちゃった。人って扉を閉めているときは閉めてくれないのに、扉を開けているときに限って閉めていくよね〜。

 

とりとめもなく書いている。同じ書くでも、Twitterじゃなくてブログだとちょっぴり生産的な感じがしてうれしい。生産性の善悪二元論みたいな、社会の常識にとらわれているね。でも今日はその常識の恩恵を受けようと思う。

こうして即興的な思考をつらつらと書いていると、大塚紗英さんのブログを思い出す。毎日更新のころ、好きでよく読んでいた。もう5年も前になる。最新の記事を今見たら、相変わらず思考の畑の中で、熱い思いとほんわか天然と混ぜ混ぜで紡いだような文章だった。やっぱり好きだな、と思う。他人の思考も、熱い思いも大好きだ。

ブログ繋がりで、昔コーヒーさんという人(いっぱいいそうだね)の個人サイトのブログを好きでよく読んでいたな。いまぼくの中にある個人サイトへの憧れは、少なからずこの人の影響を受けているんだろうなあ、と思う。あとはサボテン好きとか。オールラウンダーなところとか? それはレオナルド・ダ・ヴィンチかな。

ブログつながりでもう一つ。最近Keiくん(TwitterのFF)のブログを読んでいる。

毎週更新の安定感ってすごいなあ。このブログの通知を見ると、また一週間過ぎたんだと実感する。はじめに日記的な内容、次いで日常から選んだテーマを話して、それにちなんだ名言で締める、という構成もほとんど一貫していて、その構成を期待して読んでいる自分がいる。一貫することの偉大さを実感する。そしてまた名言のチョイスがいい。ブログっていいなあ。また来週も、他人の人生と思考を吸い込みたい。

 

眠くなってきたから終わり。いつもは少し気を張ってブログを書いているけれど、たまにはこういうのもいい。というか、むしろスタンダードなブログってこういうやつだよね。それでもやっぱり、こんなブログでいいんだろうかと真面目なぼくが思うけれど、まあええやろ、とまどろみの悪魔が囁いたので、今日はブログ記念日(適当)。