をれをずブログ

あええええばぶばぶ

ヘルニア奮闘記1 恐怖!ヘルニア神宮編

 六月二十二日。その日付を今でも覚えている。初夏のような、暑いけれど日陰が爽やかな晴れの日だった。
 そのころ私は全てで忙しくて──そう、全てで忙しかった。当時、修士二年だったが、無能故、授業がそれなりに残っていたのに加え、六月後半から七月後半の一ヶ月に、「全て」のピークが詰まっていた。研究室での論文紹介に始まり、国際会議の発表準備、さらにその後国際会議があり、ちょうどその前後(というか飛行機に乗ってるとき!)が期末レポートの締切で、とどめに帰ってきた週がゼミの発表担当回だった。唯一の救いは、私があまりに社会に適合できず、就活をしていなかったことだ。就活がないぶん他の学生よりも多くの時間を確保することができ、なんとか──単位をボロボロ落としながらも──椎間板が飛び出ながらも──生き延びることができた。ああ、社会不適合者でよかった!
 その日は午後一時から発表練習の予定だったが、そのような状態だったから、原稿は全くできていなかった。というより、忙殺されて作る気力が奪われていたというほうが正しい。人間、追い詰められると性格が出る。私はもともと完璧主義なたちなので、絶対にできないタスクの雨が降ってくると投げ出してしまう。その週も例に漏れず、学会発表のタスクは全部放り投げて、授業の方だけやっていた。
 朝は時間があったが、つかの間の惰眠を貪り、原稿には一瞥もくれず、十時半に家を出た。妹の代理の用事があったので、先に県庁へ向かった。東山線から名城線に乗り継いで、名古屋城で降り、地上へ出る。碁盤割の大きな道路に、雨上がりの青い空。それを遮る大きな街路樹と落ち着いた色合いの県庁舎。本通りを外れると、舗装の割れ目から、子供の背丈ほどある草が青々と生い茂っているのも夏らしい。強い日差しと、大きな木陰との美しいコントラストに、晴れやかな気持ちになった。
 用事はすぐに終わったが、家を出るのが遅かったため、お昼になってしまった。あまり行かない場所だし、付近で食べてから大学へ向かうつもりだったが、なんとも気分が乗らず、そのまま地下鉄へ降りた。
 名城線で二駅戻り、栄で乗り換えて、東山線でもと来たほうへ戻り、本山で再び名城線へ乗り換える。東山線は比較的静かだが、名城線は信じられないほど大きな音がなる。話ができないほど大きな走行音を上げて、列車が走る。「次は、名古屋大学名古屋大学。」「This is ナゴヤ ダイガクゥ. 」
 うつむいたまま、駅の方をちらと見る。若者が二、三人降りていく。私は、降りれなかった。
 本山の手前、覚王山のあたりから、気持ちが悪くて仕方なかった。気が重く沈み、目線すら上げたくなかった。本山での乗り換えはのろのろと歩き、名古屋大学が近づくにつれて心音が高まって、全身が脈打つのを感じた。降りれなかったとき、ああ、やっぱりか、という気持ちが半分、そんなにひどかったか、という驚きが半分だった。
 扉が閉まり、名古屋大学を発車したあと、私はなんだか安堵して、心音がおさまっていくのを感じた。同時に、気分がさらに落ち込んで、ひどく自分を嫌悪した。なんて自分はだめなやつなんだろう、とうなだれた。自分の靴と、床と、向かいの席のヒーターをかわるがわる見つめていた。ポケットからスマホを取り出して、横目で電源を落として鞄に入れた。

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 ひどい走行音が、長く続いていた。「まもなく、新瑞橋新瑞橋。」。ふと聞こえてきたアナウンスによると、新瑞橋まで来てしまったらしい。ここまできたら、もういっそ一周してしまおうか、などと考えた。不快な気持ちと、言葉にならない思考がぐるぐる回る。みょーん通り、堀田、伝馬町、神宮西……。神宮西と聞こえた時、ここだ、と思った。改札を出て、南へ歩き出した。うなだれて座っていたせいか、腰に少し違和感を感じたが、気にする気になれなかった。
 駅を出てすぐ、目の前、左手側に神宮が広がる。生垣と背の高い木々に覆われていて、中は全く見えない。看板によると、道路沿いにまっすぐ数百メートル歩くと入口があるらしい。手前の角に、一角、林がくり抜かれたような空間があり、立看板を見ると、旅の安全祈願だとか、そんなことが書かれていた。砂利を踏み鳴らしながら、二、三歩入ると、涼気を感じる。木々に音が吸い込まれて、大通りに面しているとは思えないほどしんと静まる。奥に、旅の神が祀られている社が見えた。
 なにが旅の神だ、と思った。神域にずかずかと踏み込んで、林を睨み、社にガンをつけて、後にした。社が気に入らなかったわけではない。この世の全てが気に入らなかった。なんでもいいからやるせなさをぶつけたかった。見えないリーゼントを頂いて、熱田神宮に殴り込むくらいの気持ちでいた。しかし、境内から出るときには、少し申し訳なく感じた。ジャパニーズだな、と思った。
 大通りに沿って歩く。数分歩くと、車祓いの入口を過ぎて、普通の入口がある。車に乗ったまま祈祷などと俗な商売だ、とケチをつけながらも、時代に対応する姿勢に妙に感心した。西口の大きな鳥居をくぐり、木の海を割ったような広い参道を進む。入口のあたりで、足に強い違和感を感じたが、構わず歩いた。平日にも関わらず、境内には楽しげな観光客と思しき男女がたくさんいた。ムカついた。研究しろや。とりあえずバレない程度に睨んでおいた。観光客どもを横目に少し歩くときしめん屋が見えたが、足の違和感がいよいよ強くなってきたので(また社会不適合すぎて店に入りたくなかったので)やめにして、手早く参拝、あるいはゴアイサツを済ませようと、左手側の本宮と思われる建物へ向かった。が、途中、手水舎のあたりで、右足のふくらはぎに強い痛みを感じ、次いで十数歩歩くうちに、強い痺れを感じて、蹲った。
 衝撃。何が起きたのか。休みながらしばし考える。実は、二ヶ月ほど前から足にときどき違和感が出ることがあった。三十分ほど立っていると、左足のふくらはぎが少し張るような、だるいような感覚があった。しかし症状はその程度だったから、おおかた運動不足のせいだろうと思っていた。脈打つたびに強い痛みをどくどくと感じ、心当たりが確信へと変わっていく。症状の出る足は変わったが、しかし、間違いない。悪化したのだ。そしてこれは重大な病気だ、と悟った。
 先程の社が頭に過る。睨みつけて出てきた、小さな神社の、旅の神。これも旅といえば旅だ。そして直感した。これは祟りだ。旅の神の祟りだ。今になって思えば、経瑠弐阿之尊へるにあのみことに違いない。
 目の前を烏が横切る。観光客から良いものでももらっているのだろうか、丸々と太っていた。馬鹿にされた気がしたので、屈みながら、とりあえず睨んでおいた。烏はゆっくりと、手水のほうへ歩き、林の中へ消えていった。

 十分ほど蹲っていただろうか。症状は少し落ち着いて、来た道くらいは歩けるようになった。頭も落ちついて、冷静になり、状況のまずさを理解して、帰ることを考えた。しかし、腹も減った。駅を出てすぐ、交差点の向こう側にコンビニがあったのを思い出し、買って食うことにした。ときどき右足を抱えながら、変な目で見られてないか心配しつつおばさんとすれ違い、歩道橋をわたり、交差点を渡り、適当なものを二つ三つ買って、外へ出て、座る場所を探した。向かいに小さな公園があったが、大通りの前で食べる気がせず、足を抱えながら、住宅地に入って三十分ほどぐるぐる回って、住宅に挟まれた細い公園のベンチを見つけ、座って食べた。よく覚えていないが、やはり雨上がりの草木は綺麗だな、と思った気がする。

 食べ終わったら、なんだか気持ちの整理がついて、駅へ向かって歩き始めた。家まではなんとか歩けそうだ。帰って身体を休めなければ。気を紛らわすためにラジオでも聞こうかとスマホを付けると、ちょうど電話が入った。もしかして、と思い番号を調べると、指導教員だった。「生きてます」と一報、メッセージを入れて、帰路へついた。時刻は二時半を過ぎていた。うるさい名城線の中を、イアホンを付けたまま、何も流さず、ずっとぼうっとしていたような気がする。

 やっとの思いで家につき、倒れ込んだ。この痛みに一年以上悩まされようとは、このときの私は思っていなかった。