をれをずブログ

あええええばぶばぶ

ぼくが対戦ゲームが好きな理由

対戦ゲームが好きと言うと、意外と言われる。自己紹介で趣味は格闘ゲームだと言ったら、「きみは『趣味は散歩です』と言ったほうがいいよ」と言われたことまである。おおかた、ぼくは人畜無害のホモ=チーギュウで、争いごとや競争とは縁遠い、とでも思われているのだろう。

認めよう。たしかに、ぼくはホモ=チーギュウだ。それに本山原人だし、流行に疎い(何の自虐?)。容姿の話を抜きにしても、マイペースでのんびり屋だし、実際、自分でも意外に思う。でも、ぼくは対戦ゲームが好きだ。

では、対戦ゲームの何が好きなのだろうか。操作してて楽しいとか、テンポがいいとか、すぐにたくさん浮かびはするけれど、どれも特定のゲーム固有の特徴のように思える。ボードゲームなんかは(対戦ゲームに含めるかは怪しいけれど)操作なんてないし、テンポはむしろ悪いだろう。だけどそれも好きだから、もっと普遍的な要素があるはずだ。自分の好きなゲームが遍く持つ特徴はなんだろう。

格闘ゲームの文脈でよく見る考えは、あまり分からない。例えば「勝つのが楽しい」とか。勝つなんて刹那的な現象だし、勝ったところでなんなのだろうと思ってしまう。逆に、「こいついつか絶対殺してやる」みたいな殺意で燃え上がるのも、よくわからなかった。

けれど最近、ひとついい説明が浮かんできた。我ながら、対戦ゲームのインタラクションの面を綺麗に捉えられていると思う。

まず、人がゲームをやっているのを見るのは楽しい。人のプレイを見るのは楽しいし、プレイと同時にその人の反応を見るのも面白い。わいわいにぎやかしたり、ツッコんだりするのも楽しい。

次に、人に見られながらゲームをするのは、楽しい。プレイをするのが楽しいし、プレイや自分の発言に対して反応があるのも面白い。

対戦ゲームは、この2つが合体した最高のゲームなのだ。

自分も相手もゲームをプレイしつつ、同じ画面を共有して、ゲーム内で起きたことに対して、画面の中でも外でも反応し合う。そりゃめちゃくちゃ楽しい。ぼくはそれがたまらなく好きだ。

絶望の起床

絶起。絶望の起床の略。理系の大学生がやたらと使うこの言葉を最近聞かなくなったのは、言葉が廃れたのか、単に自分の周りが歳をとったからだろうか。あるいは、リモートが増えて絶起が減ったということなのかなあ。ぼくが使わなくなった理由は、リモート要因と、言葉に飽きたから、というのが大きそう。絶起は、言うなればただの寝坊で、それを大げさに言うのがきっと面白いんだけど、さすがに一生言ってたら飽きちゃったなあ。

ちかごろ、ぼくは絶起に悩まされている。というのは、ただの寝坊のほうじゃなくて、起床時に真の意味で絶望している。朝、強烈な嫌悪感に目を覚ますと、あまりの絶望に体が全く動かなくなっている。目を開けるのも嫌で、今にも吐きそうで人生を諦めたくなるのを、うずくまってただ耐える。唐突に重い話をするが、ぼくとしてもすごく突然なことだったのだ。まるで悪夢のような感覚なのだれけど、たしかに目覚めていて、じゃあなんだ、悪現とでも言えばいいのか分からないけれど、とにかく、心の底から絶望して起きるのだ。

はじめてこれを体験したときは、「やりたくない」という言葉とともに絶望していた。何がやりたくないのかも分からなかったが、とにかくやりたくない、やりたくない、という気持ちに支配されて、助けてくれ、ドラえもんドラえもんと10分くらい苦しんでいた。そのうちに気持ちがすうっと抜けていって、穏やかな普通の朝になった。当時、タスク過多だったのが効いたのかなあ、と思っている。この苦痛には耐えられない、死んでしまうと直感で感じて、それ以来、無理はしないようにしよう、と決めた。一種のトラウマ*1に近い。

それがまた、今朝起きた。今度は、「楽しいことが何もない」という言葉が頭にずっと浮かんだ。これはぼくがこの1年半、ずうっと言っている言葉で、すごく実感があった。「楽しいことが何もない。」。「楽しいことが何もない。」。本当の自分の感情に感じて、いや確かにそうなのだけれど、二度と払拭できないように思えてすごく怖かった。
大きすぎる絶望を抱えきれなくて、吹き飛ばしてやろうと考えた。二つか三つ、好きで大切なはずなものを思い浮かべた。でも、どれも好きだと全く思えなかった。何を思い浮かべても、好きだった気持ちは分かるのに、全く好きだと思えないし、興味がわかないし、感情が何も動かない。本当に何も思わなくて、二度と好きと思えなくなるんじゃないかと怖くなって、これはやめた。
「楽しいことが何もない」と絶望の中で身体を震わせ続ける。やはり耐えられないと思った。この気持ちには、この人生には耐えられない。こんなに苦しいことをいつまで続けるのか? いつまで続けられるのか? まあ、めちゃくちゃ痛い怪我もなんだかんだ耐えられるから、少なくとも二週間くらいはいけるのだろうけど。でも、痛みを耐えられるのは、いつか終わるからであって、もし、もしこれが、人生が終わるまで続くとしたら──

考えているうちに、絶望はまたすうっと消えていった。改めて好きなものを思い浮かべると、こんどはちゃんと好きだと思えた。それがすごく愛おしくって、心のなかでぎゅっと抱きしめた。

絶望から起きたぼくには、やはりまた決意があった。人生を楽しく彩らねばならない。そう強く感じ、決意した。
このまま人生をなあなあに進めていったら、きっとこの絶望は、完全にぼくのものになるのだろう。そうならないうちに、少しでも人生が楽しくなるように工夫をする。そうしなければ、きっと、死んでしまう。決意といっても、必要に迫られた悲壮な決意なんだけど。


本当にダサいと思う。つくづくこのブログもダサい。必要に迫られないと楽しくもなれない人間だったなんて。ところで、関西のシマウマはトラ柄らしい*2

*1:ところで、「トラウマ」って「シマウマ」よりずっと動物っぽいと思う。

*2:

じゅうがつじゅうはちにち

突然の日記。

 

今年の十月は暖かくて、半袖短パンで過ごしていたのだが、ここ二日で急に涼しく、いや寒くなって、今日は三枚も着込んでいる。今朝は十度しかなかったらしい。
朝、大学へ──じゃない道を歩いていた(サボタージュのため)。剪定された生け垣の切り口がこちらを向いているのを見て、少し怖さを覚えたことに驚いた。一昨日までなら、年輪から木の温かみを感じていたのではないだろうか? 下に目をやり、石垣を見ると、これもまた、擦り傷をしないように近づかないようにしよう、という思考が働いた。一昨日まで、石やコンクリートを見ては、温かい赤外線が出ていないかなあと近づいていたのに。
一昨日までと違うのは、風が冷たくて、ぼくの肌が冷えていることくらい。人間の感覚ってこれだけで大きく変わってしまうんだ、と実感して少し怖くて切ない気持ちになった。
同じ映画でも、夏に見るのと冬に見るのとでは違うのかなあ。。

人生2

はっきり言って人生はオワコンだ。

 

第一に苦しすぎる。第二に幸福が無い。第三に納得感に欠ける。理由は百八式まであるが、もう十分だろう。

人生は素晴らしいものだ、といろんな人がいろんな喩えで同じことを言っている。初めて聞いた時はハッとして、真摯に生きよう、などと思うが、後になって考えてみれば、人生はそんな大層なものじゃないと分かる。人生に美しい比喩は似合わない。人生は苦痛の連続だ。

親が生んでくれた身体を大事にしろだの、生まれてきた奇跡がどうだのと、そういう類の話も後をたたないが、まったく、押し付けがましい、恩着せがましいったらありはしない。誰が産めと頼んだ。誰が造ってくれと願った。地獄に落ちるのは嫌がるのに、どうして生まれ落ちるのがありがたいのか。

人生なんて無益なものは、さっさとやめてしまったほうがいい。死ぬまで足掻いて損し続けるより、今までの損を受け入れて切り上げてしまった方が得だ。あるかも分からない一縷の望みにかけて歩き続けるなんて、どんなギャンブルより酷い。人生依存症でないのなら、今すぐ引退をオススメする。

 

それでも、もう何年も一緒に苦しみ続けた仲だ。自分は自殺などできる人間ではないと嫌でも分かる。この先もこうして文句を垂れながら惨めに生きていくのだろう。「大学キモすぎ!」「人生カスすぎ!」と、死ぬまで真顔でTwitterに打ち込み続けるのだろう。

ふと考えることがある。今や人生80年時代。この先60年もこの延長線上で生きるとしたら?──それはあまりに、苦しすぎる。

だとしたら、考えなければならない。自殺はできない。生まれ持っての環境も親の財産もない。だけど、その中で生きる術を。苦しみを緩和する方法を。幸福を手にする方法を。考えなければならない。

今までの搾りカスみたいな人生に、最悪な繰り返しの日常に決別し、新しい人生に出会う。起き上がれずに天井を眺め続ける朝(昼)や、虚ろな目でタイムラインを撫で続ける夜はそこにはない。「だれも苦悩や悲しみに途方に暮れず、毎日みんなで楽しく過ごしたり幸福を味わったりして1日がおわるマジで楽しい人生」という意味を込めて、新しい人生を「人生2(ツー)」と名付けよう。

 

どうしたら人生2に移行できるだろうか。You Tubeの広告は、「人生を変えたい、そんなあなたに朗報です!」などとしょっちゅう言ってくれるが、この手のものはまずダメだ。脱毛はたしかにしたいが、人生が限界な人間はもっと先にすべきことがある。それにYou Tubeは、「超高級メンズ人生『人生2(ツー)』がなんと980円で体験できちゃうんです!」などと広告してはくれない。

思うに、人生2は脱毛、洗顔、スキンケア、といったものの先にあるものではない。むしろ、人生2の先にそういったものが選択肢としてあるのだと思う。いや、そうじゃない。マーケティングをしたいわけじゃなかった。俺の抱える問題は、もっと深く、根本的なところにある。

まずは問題を明らかにしよう。これは簡単だ。自分を二人用意して、一人に尋問、もう一人に言い訳をさせればいい。言い訳は得意だ。任せてくれ。

 

ねぇねぇオタクくん。オタクくんはなんで苦しいんでちゅか?

──時間がないからだ。やりたいことをやる時間がない。

じゃあ、時間があればいいんでちゅか?

──それは違う。一人ではできないタイプの趣味なんだ。だから時間だけがあっても虚しいだけだ。

なるほど。仲間を見つけられればいいんだね?大人のくせに、満足にコミュニケーションも取れないオタクくん……。で、なら友達と普通に遊べば?

──積極的に関われる友達が、いない

コミュニケーションに難あり、っと……。

 

 

まとめると、問題は主に2つ。時間的余裕がないこと。人と積極的に関われないこと。この2つだけ。なんだ簡単そうじゃないか。問題が分かれば、あとは解決するだけ。さあ、人生2へ引っ越しの準備を始めようか。

 

Twitter「スペース」に対する個人的な期待と挫折

 今年の春だったか、Clubhouseが話題となったとき、遂にこのときが来たかと私は小躍りした。音声SNSの波が来る。Twitterで利用したい、と思った。そしてそれはTwitterに来た。再び私は小躍りした。

 音声SNSは私の積年の願いであった。Twitterの肝=オタクとのコミュニケーションを楽しみながらも、私はテキストコミュニケーションにうんざりしていた。それは、満足度が低いからだ。テキストコミュニケーションは密度が低く、満足しようとしたら膨大な時間を奪われる。

 元来、人のコミュニケーションはマルチモーダルなもので、表情、目線、仕草など、様々な情報を同時にやり取りしていて、すごく密度が高い。音声コミュニケーションであるからテンポも早い。反対に、テキストでは、情報はほとんど落ちてしまっている上に、テンポも遅い。これで満足しようと思うのがそもそもの間違いなのだが、陰キャキモオタクはTwitterの他にコミュニケーション手段がない。

 そうした中で、音声SNSは救世主に見えた。情報が落ちていることには変わりないが、それでもテキストよりは豊富な情報である上に、テンポの問題が解決される。コミュニケーションの可能性という一筋の光が、陰の世界に差し込んだ。私は、やはり小躍りして、スペースを作成した。

 

 して、どうだったか。結論から言えば、スペースはカスだった。

 

 スペースはカス、陰キャ、陰キモだった。悔しかったから、ダメな理由を分析した。

 

 まず、私の期待を述べよう。私の期待は大きく四つだった。

  1. コミュニケーション
  2. 広場
  3. 帰り道
  4. 作業空間

 

 それぞれ解説と挫折を述べよう。

1. コミュニケーション

 これは、単にコミュニケーションを求めているだけである。普通の人間であれば、まあ、学校や職場で話したり、休日に友達と会えばいいわけだが、陰キャは社会と隔絶しているためそれができない。そこで、SNSを通じてコミュニケーションを摂取しようというわけだ。陰キャにとって、コミュニケーションはSNSでしか摂取できない必須アミノ酸といえる。

 結論を言うと、これは単なる通話であるため、スペースである必要が全く無い。むしろ開放的な空気が、場を破滅させる。

 

2. 広場

 ここで言う広場とは、「行けば誰かいる場所」のことだ。部室とか、公園とか、ゲーセンだと思ってもらえばいい。たまり場と言ったほうがいいかもしれない。

 私は広場が好きだ。だらだらしたいとき、広場でだらんとしてくっちゃべる。そんな文化的な交流がしたかった。それがインターネットによって自室からできるのなら、どんなにいいだろうと思った。

 挫折を述べよう。広場として成立しなかった。まず人がいない。人がいないなら自分が人になればいいじゃない(?)、とスペースを作成して試行錯誤していたところ、根本的な問題にも気づいた。それは、空間がないことである。

 現実空間の広場であれば、相手と自分の距離、そして身体の存在によってコミュニケーションが始まるが、スペースにはそれがない。つまり、近づいてからお互いに気づいて話しはじめるとか、そういうことが起こり得ないのだ。スペースに参加しても、「よっ」とはならない。「よっ」とならないと、人は話しにくい。

 

3. 帰り道

 人は帰り道に愚痴を言い合える仲間がほしい。社会に敗北した日の孤独な帰路は虚しいものだ。

 そこで私はスペースに帰り道を求めたが、やはり挫折した。広場の問題と同じで、まず人がいない。いたとしても体験を共有していないので、やはり話しづらい。愚痴を言うつもりでスペースをはじめても、いざアイコンと対面すると、いやこの人に言うのは違うだろうと遠慮して、結局世間話をしたりする。世界は難しい。ぽえぽえ。

 

4. 作業空間

 作業空間とは、作業に適した空間だ。研究室、図書館、自習室、共有スペース、そんなものがが該当する。

 なんとなく分かっていたが、これはやはり無理であった。そもそもスペースは空間ではない*1。空間であれば作業に集中していても人が来るのが分かるし、相手の様子も一目で分かる。スペースにはそれがないので、とても気が散るし、コミュニケーションも円滑に進まない。やはり作業空間にはVR空間くらいのものが必要なのだ。

 

 

 まとめると、「空間がないことへの挫折」と「通話以下の音声コミュニケーションに価値なし」というところだろうか。また、昨今のオンライン飲み会でも感じていたが*2、音声コミュニケーション自体にも大きな難しさがある。スペースは、それらが相まってかなり難しいSNSになっているのだろう。

 

 まあ、スペースやめて普通に通話しろってところだろうか。まさか友達と通話すらできないオタクくんはいないよね・・・w(死亡)

*1:画像はイメージです

*2:陰キモのため未参加。見栄による記述である。

ZOWIE XL2411Kの設定について

3月に買った時、説明されてるサイトがどこにもなくて結構手間取ったので書きました(なぜ今?)。

解説系ブログ!?!?!?

 

型番: XL2411K

筆者: ゲーマー、格闘ゲーム

 

  • モードについて
    • 初期設定は「FPS1」ですがこれは遅延がやばいので絶対変えてください。
      • ざっと試しましたが「ゲーマー」が早くて次いで「エコ」が早いです(なぜ?)。
      • 自分はゲーマー2種(明るい昼用の画面/暗い夜用の画面)とエコ(業務用)を使ってます
        • 明るい画面
          • 若干白っぽいので彩度1あげてもいいかもしれません(すこし鮮やかすぎるくらいになります)
        • 暗い画面
          • 黒いところが見にくくなるのでBlack eQualizer上げたほうがいいです(自分の設定だと10くらいで十分)
      • ちなみに「エコ」はなぜか遅延少ないのでたまに切り替え忘れたままゲームしてます
  • 切り替えの優先設定(超大事)
    • これをしないと複数入力を切り替えることができません
      • Amazon のレビューにこの設定が分からずブチギレてる輩がいます
      • 複数デバイスを接続する人は設定しましょう
    • システム→その他の設定→入力自動切り替えをオンにしましょう
  • ローテーションキー
    • モードと入力切り替え安定です。ほかはにんげんじゃないかも・・
    • カスタム→ローテーションキーから変更
  • Black eQualizer 
    • 明暗が薄くなっちゃって綺麗さが落ちるので自分は暗い画面モードでしか使ってません。FPSやるひとはちがうかも?
    • 昼にやるなら輝度と彩度あげれば?と思う。夜は嬉しい。

大学の真実をお伝えします

大学を命からがら逃げ延びたぼくが、大学の嘘を暴き〝真実〟をお伝えします。※一部偏見の強い描写が含まれますので、心の強い方は通読をご遠慮ください。

 

生きていれば、大学にまつわる通説をたくさん耳にするでしょう。高校教師がよく「大学受験が人生で一番の頑張り時」「大学受験頑張れば後の人生楽勝」などとのたまうように、その多くは高校生に心地良い夢を見させてくれるものですが、ほとんどが中卒の妄想にすぎません。今回はそんな中卒たちの説の中から一部を解説してみました。

 

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「大学受験で頑張った方が人生楽」

「大学受験頑張れば後の人生楽勝」

→嘘。頑張った先に行く場所は「“あなたにとっての頑張った”が”普通”な人」たちの場所。ちな受験全く頑張らなかったけど大学ありえんしんどい。

 

「いい大学に入ればいい人生が待っている」

→嘘。バブル世代?いい年して現実見えてないおっさん、キツい。

 

「大学生活が一番楽しい時期だぞ」

→嘘。これが一番楽しいってことは大学生活で受容体壊れちゃったんだと思う

 

大学は人生の夏休み

→本当。宿題を溜め込むタイプの人の8月29日〜9月2日を繰り返してる感じ。

 

楽しい

→嘘。高卒の妄想。大学エアプか?

 

自由に好きな授業を選べる

→嘘。必修が多く、選択は地雷だらけだから実質的に選択肢はほぼない。「転生するか地獄行くかどっちがいいですか?」みたいな二択を自由とは呼ばない。

 

自由闊達な学風

→嘘。自由でも闊達でもない。退学するかどうかくらいしか自由がないし、煩雑な手続きに拘る。

 

自由

→嘘。大学エアプか?

 

いまが最高!

→本当。幸福は単調減少なため。

 

学生は教師から褒められる教育を受けるが、社会人になると褒められることはまずない。

→大学で褒められることほぼないです。能力を否定されて育ちました

 

学生は金がないが社会人は時間がない

→嘘。金は人によるが時間はない。時間ありそうなやつは留年してる。

 

大学生活5分の2説(「勉強、バイト、サークル、遊び、恋愛」のうち、同時に2つまでしかできないという説)

→本当。ちな自分5分の0

 

自分の居場所がある

→ない。実家からは暇人扱い、社会からは働いてない半人前扱い、でも行政からは成人扱い。挙げ句事務には厄介払いされる。

 

大学院生は修学支援新制度の支援対象にならない

→本当。大学院生は対象になりません。(大学院への進学は18歳人口の5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では概ね20歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)*1

 

 

ちなみに、大学から逃げ延びた私ですが、現在大学院に収容されています。たすけてください。・・・ --- ・・・ 252