をれをずブログ

あええええばぶばぶ

ヘルニア奮闘記1 恐怖!ヘルニア神宮編

 六月二十二日。その日付を今でも覚えている。初夏のような、暑いけれど日陰が爽やかな晴れの日だった。
 そのころ私は全てで忙しくて──そう、全てで忙しかった。当時、修士二年だったが、無能故、授業がそれなりに残っていたのに加え、六月後半から七月後半の一ヶ月に、「全て」のピークが詰まっていた。研究室での論文紹介に始まり、国際会議の発表準備、さらにその後国際会議があり、ちょうどその前後(というか飛行機に乗ってるとき!)が期末レポートの締切で、とどめに帰ってきた週がゼミの発表担当回だった。唯一の救いは、私があまりに社会に適合できず、就活をしていなかったことだ。就活がないぶん他の学生よりも多くの時間を確保することができ、なんとか──単位をボロボロ落としながらも──椎間板が飛び出ながらも──生き延びることができた。ああ、社会不適合者でよかった!
 その日は午後一時から発表練習の予定だったが、そのような状態だったから、原稿は全くできていなかった。というより、忙殺されて作る気力が奪われていたというほうが正しい。人間、追い詰められると性格が出る。私はもともと完璧主義なたちなので、絶対にできないタスクの雨が降ってくると投げ出してしまう。その週も例に漏れず、学会発表のタスクは全部放り投げて、授業の方だけやっていた。
 朝は時間があったが、つかの間の惰眠を貪り、原稿には一瞥もくれず、十時半に家を出た。妹の代理の用事があったので、先に県庁へ向かった。東山線から名城線に乗り継いで、名古屋城で降り、地上へ出る。碁盤割の大きな道路に、雨上がりの青い空。それを遮る大きな街路樹と落ち着いた色合いの県庁舎。本通りを外れると、舗装の割れ目から、子供の背丈ほどある草が青々と生い茂っているのも夏らしい。強い日差しと、大きな木陰との美しいコントラストに、晴れやかな気持ちになった。
 用事はすぐに終わったが、家を出るのが遅かったため、お昼になってしまった。あまり行かない場所だし、付近で食べてから大学へ向かうつもりだったが、なんとも気分が乗らず、そのまま地下鉄へ降りた。
 名城線で二駅戻り、栄で乗り換えて、東山線でもと来たほうへ戻り、本山で再び名城線へ乗り換える。東山線は比較的静かだが、名城線は信じられないほど大きな音がなる。話ができないほど大きな走行音を上げて、列車が走る。「次は、名古屋大学名古屋大学。」「This is ナゴヤ ダイガクゥ. 」
 うつむいたまま、駅の方をちらと見る。若者が二、三人降りていく。私は、降りれなかった。
 本山の手前、覚王山のあたりから、気持ちが悪くて仕方なかった。気が重く沈み、目線すら上げたくなかった。本山での乗り換えはのろのろと歩き、名古屋大学が近づくにつれて心音が高まって、全身が脈打つのを感じた。降りれなかったとき、ああ、やっぱりか、という気持ちが半分、そんなにひどかったか、という驚きが半分だった。
 扉が閉まり、名古屋大学を発車したあと、私はなんだか安堵して、心音がおさまっていくのを感じた。同時に、気分がさらに落ち込んで、ひどく自分を嫌悪した。なんて自分はだめなやつなんだろう、とうなだれた。自分の靴と、床と、向かいの席のヒーターをかわるがわる見つめていた。ポケットからスマホを取り出して、横目で電源を落として鞄に入れた。

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 ひどい走行音が、長く続いていた。「まもなく、新瑞橋新瑞橋。」。ふと聞こえてきたアナウンスによると、新瑞橋まで来てしまったらしい。ここまできたら、もういっそ一周してしまおうか、などと考えた。不快な気持ちと、言葉にならない思考がぐるぐる回る。みょーん通り、堀田、伝馬町、神宮西……。神宮西と聞こえた時、ここだ、と思った。改札を出て、南へ歩き出した。うなだれて座っていたせいか、腰に少し違和感を感じたが、気にする気になれなかった。
 駅を出てすぐ、目の前、左手側に神宮が広がる。生垣と背の高い木々に覆われていて、中は全く見えない。看板によると、道路沿いにまっすぐ数百メートル歩くと入口があるらしい。手前の角に、一角、林がくり抜かれたような空間があり、立看板を見ると、旅の安全祈願だとか、そんなことが書かれていた。砂利を踏み鳴らしながら、二、三歩入ると、涼気を感じる。木々に音が吸い込まれて、大通りに面しているとは思えないほどしんと静まる。奥に、旅の神が祀られている社が見えた。
 なにが旅の神だ、と思った。神域にずかずかと踏み込んで、林を睨み、社にガンをつけて、後にした。社が気に入らなかったわけではない。この世の全てが気に入らなかった。なんでもいいからやるせなさをぶつけたかった。見えないリーゼントを頂いて、熱田神宮に殴り込むくらいの気持ちでいた。しかし、境内から出るときには、少し申し訳なく感じた。ジャパニーズだな、と思った。
 大通りに沿って歩く。数分歩くと、車祓いの入口を過ぎて、普通の入口がある。車に乗ったまま祈祷などと俗な商売だ、とケチをつけながらも、時代に対応する姿勢に妙に感心した。西口の大きな鳥居をくぐり、木の海を割ったような広い参道を進む。入口のあたりで、足に強い違和感を感じたが、構わず歩いた。平日にも関わらず、境内には楽しげな観光客と思しき男女がたくさんいた。ムカついた。研究しろや。とりあえずバレない程度に睨んでおいた。観光客どもを横目に少し歩くときしめん屋が見えたが、足の違和感がいよいよ強くなってきたので(また社会不適合すぎて店に入りたくなかったので)やめにして、手早く参拝、あるいはゴアイサツを済ませようと、左手側の本宮と思われる建物へ向かった。が、途中、手水舎のあたりで、右足のふくらはぎに強い痛みを感じ、次いで十数歩歩くうちに、強い痺れを感じて、蹲った。
 衝撃。何が起きたのか。休みながらしばし考える。実は、二ヶ月ほど前から足にときどき違和感が出ることがあった。三十分ほど立っていると、左足のふくらはぎが少し張るような、だるいような感覚があった。しかし症状はその程度だったから、おおかた運動不足のせいだろうと思っていた。脈打つたびに強い痛みをどくどくと感じ、心当たりが確信へと変わっていく。症状の出る足は変わったが、しかし、間違いない。悪化したのだ。そしてこれは重大な病気だ、と悟った。
 先程の社が頭に過る。睨みつけて出てきた、小さな神社の、旅の神。これも旅といえば旅だ。そして直感した。これは祟りだ。旅の神の祟りだ。今になって思えば、経瑠弐阿之尊へるにあのみことに違いない。
 目の前を烏が横切る。観光客から良いものでももらっているのだろうか、丸々と太っていた。馬鹿にされた気がしたので、屈みながら、とりあえず睨んでおいた。烏はゆっくりと、手水のほうへ歩き、林の中へ消えていった。

 十分ほど蹲っていただろうか。症状は少し落ち着いて、来た道くらいは歩けるようになった。頭も落ちついて、冷静になり、状況のまずさを理解して、帰ることを考えた。しかし、腹も減った。駅を出てすぐ、交差点の向こう側にコンビニがあったのを思い出し、買って食うことにした。ときどき右足を抱えながら、変な目で見られてないか心配しつつおばさんとすれ違い、歩道橋をわたり、交差点を渡り、適当なものを二つ三つ買って、外へ出て、座る場所を探した。向かいに小さな公園があったが、大通りの前で食べる気がせず、足を抱えながら、住宅地に入って三十分ほどぐるぐる回って、住宅に挟まれた細い公園のベンチを見つけ、座って食べた。よく覚えていないが、やはり雨上がりの草木は綺麗だな、と思った気がする。

 食べ終わったら、なんだか気持ちの整理がついて、駅へ向かって歩き始めた。家まではなんとか歩けそうだ。帰って身体を休めなければ。気を紛らわすためにラジオでも聞こうかとスマホを付けると、ちょうど電話が入った。もしかして、と思い番号を調べると、指導教員だった。「生きてます」と一報、メッセージを入れて、帰路へついた。時刻は二時半を過ぎていた。うるさい名城線の中を、イアホンを付けたまま、何も流さず、ずっとぼうっとしていたような気がする。

 やっとの思いで家につき、倒れ込んだ。この痛みに一年以上悩まされようとは、このときの私は思っていなかった。

御卒業センチ

 人とあまり関わってこなかったし、関わった同期はもうみんないないから、卒業なんてどうでもいいと思ってたけど、意外と寂しいもんだね。

 曲がりなりに7年もいたからかな。夢まで見てしまったよ。高校と大学の中間みたいなところに、謎の施設の人たちが加わった卒業式。謎の施設の人からかけられる言葉に頷くぼく。アホたちがトイレを閉め切って、占拠する──それに対抗してトイレを奪還する──のはどうでもいいんだけど。

 人に関してはあまり思うところがない。ほとんどの別れは3年前か1年前だったから。機会の損失を寂しく思っているのかもしれないな。この7年間、もっと有意義にできただろうって。インターネットばかりやらずにね。他者ともっと積極的に関われば楽しく過ごせただろうし、そうしないのなら自分の達成がもっと得られたと思う。7年と数字にすると、あまりに達成が少なかったように思う。もっとできたはず。いや、絶対にできた。でも、「できていない」は「できなかった」に変わってしまった。

 二日酔い、ではないけれど、身体の感覚がおかしい。睡眠の質も悪いし、筋肉の動きも少し悪い。それでも、門出という感じがするから不思議だ。次の節目まで何年だろう。とにかく、年数に見合った過ごし方をしたい。

 弱い決意を胸に、布団から脱出する。なんだかお腹いっぱいだなあ。いつもは音楽かけないとやってられないのに。

椎間板ヘルニア奮闘記4 寛解編

 九時に予約した検査に、九時発の列車で向かう。怠惰の朝は遅い。おまけに駅を一つ乗り過ごした。十五分過ぎて、病院に着いた。今日はヘルニアの経過観察で、経過が良ければこれで治療は終わりになるという話だ。
 検査室へ向かう途中、入院の受付を通り、そういえば、と思い出す。一年半ほど前、祖母の付き添いでこの病院に来た。その頃、祖母は腰の痛みが酷く苦しんでいたのだが、入院すればそれが解決すると信じていて、朝になると救急車を呼んでは入院させてくださいと大声で繰り返す、迷惑な患者だった。当然入院できるはずがなく、晩になると我々家族が迎えに行かねばならないのだから、迷惑な家族でもあった。何度か私も救急車に付き添う羽目になったのだが、その頃私は既にヘルニアを患っていて、痺れる足で病院中車椅子を押したものだった。この病院に運ばれた日、祖母はついに入院に成功し、私はというと、その手続で朝から晩まで付きっきりで、一番大変な日だった。最後には身体を起こしているのも辛く、外のベンチに横たわったのを覚えている。
 縁だな、と思った。ヘルニアで苦しんだここで、ヘルニアの治療を受けている。

 検査着に替え、MRIを受ける。MRIでは、検査時に大きな音が鳴るため、ヘッドホンを付ける。経験上無音が多いが、珍しくピアノのヒーリングミュージックが流れていた。曲自体は好みだが、検査との相性は最悪だった。MRIの音が大きくて音楽がかき消されるし、時々不協和音になってしまう。うるさくて曲は聞けないし、MRIの音も集中して聞けない。どっちつかずの時間だった。これは完全にミスチョイスだ。だいたい、MRIに音楽など必要ない。MRI自身が音楽なのだから。必要な音のみが奏でられる、機能的な美しい反復。MRIのビートを聞け、体中の水素原子で感じろ。

 

 

MRIの結果が届いていませんので、かけてお待ちください」
わけの分からない理由で、一時間以上診察を待っていた。順番待ちではない。検査結果が届いていないので、順番待ちの列に入れすらしないのだ。同じ病院だろう、連携はどうなってるんだ。結局、順番待ちが始まる頃にはお昼になってしまった。
 他の人より二周り若い番号が表示されて、私の番が来る。先生と検査結果を見る。椎間板がだいぶひっこみ、神経の通り道がいくぶん見えるようになっている。厚みも少し増し、水分量もわずかに回復したようで、白く映る部分がある。十分だろう。
「これでいったん、終わりにしましょうか」
先生が云う。
 治療から10ヶ月が経った。症状はすっかり軽快した。横着をすると二日三日、右足とお尻に痛みが出たり、足が攣りそうになるが、それも二月に一度くらいだ。
「そうですね」
と頷くと、
「まあよほど大丈夫だと思いますよ」
と先生は笑って云った。
「まあまたなんかあったら来てください」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます」
 椅子を立つときと、部屋を出る前と、二度礼を言って、診察室を後にした。

 帰りに薬局へ寄った。病院を出て駅の向こう側にある、老夫婦がやっている小さな薬局だ。はじめは歩くのが大変だから、病院を出て目に留まった薬局に入っただけなのだが、その緩い雰囲気が好きになり、病院帰りに処方箋を持って雑談するのがお決まりになった。少々手際が悪いところもあるが、その間は話してればいいわけだし、なんというか、重い診察の後にはこのくらいがちょうど良い。前に行っていた薬局は工場化されていて、さながらマクドナルドのようだった。
 今日は処方箋がないから、代わりに花粉症の薬を買うことにした。普段使う薬が無かったが、まあいいだろう。ジェネリックのものがお値打ちだというので、それを買った。花粉症の話をした後、奥さんが奥から出てきたので、二人に治療が終わった報告をして、店を出た。家から遠い薬局だから、再び大きな病気にならない限りは、もう来ることはないかもしれない。
 強風のなか、駅へ足を進める。自分の人生の、一つの章が終わった気分だ。
 彼らとも、先生とも、人生でもう二度と会わないかもしれない。
 今縁がある人とも、あと何度会えるだろう。
 最後だけじゃなく、一つ一つ大事にしたい。人見知りだとか理由を捏ねて、その機会を減らすのって損だ。

 駅のホームで、強風に負けじと、背筋を張る。髪が靡いて、額に張り付いた。
 そろそろ自転車、整備しなきゃな。

忘年会

 年の暮れ、私は関わりの薄い人たちとの忘年会に参加する羽目になった。
 羽目になった、というのは変な言い方だが、本当に、参加する気はなかった。というのも、参加者の半分は知らない人で、もう半分はよく知らない人だからだ。忘年会の報せを見て、はじめは知らんぷりをしていたが、しかし、二週間ほどまえ、幹事から連絡があり、やむなく、参加することにした。今思えば、予定を捏造してしまえば済んだ話で、参加する必要などなかったのだが、しかし、断るのも心苦しく、くわえて事務的な用事もあったため、無謀にも、参加してしまった。
 そして、あえなく撃沈した。

 私は落ち込んだ。そして、ひどく恐ろしい気持ちに襲われた。
 忘年会を楽しめなかったことにではない。それ自体は、私に問題がある。人見知りなこと、主張が弱いこと、話を振らないこと、などなど、反省点はいくつもあるし、改善すればもっと良く振る舞えるだろう。それに、そもそも関わりが薄いうえ、気質が合わないなど、見込みの薄い場でもあった。だから、問題はそこではない。
 ここ4年ほど、私のテーマは人だった。モノから人に、重点を移して行動してきた。モノなどどうでもよく、大事なのは人なのだと、信じて疑わなかった。でも本当に人が好きなのか、人とのコミュニケーションが好きなのか、ということに疑問が生じた。本当は人とのコミュニケーションなんて全然好きではないのではないか。
 一方的に話すことが好きなだけなのではないか。まさに今こうしてパソコンに向かっているように。そしてひとしきり話したのちに、こちらもまた一方的に話を聞くのが好きなだけなのではないか。
 あるいは表面的な話が好きではないのか? 深い話、あるいは互いに知識のある話だけが好きなのか? それすらも反動や、嫌いなものとの比較でそう思い込んでいるだけではないのか? わからない。全然わからない。わかっていたつもりの自分が打ち砕かれて、全然分からなくなってしまった。結局自分は何が好きなんだろう。わからない。モノが好きじゃなくて、人も好きじゃなかったら一体自分は何が好きなんだろう。何を求めて生きていけば良いんだろう。かつて感じた、無味乾燥な人生が続くことに対する恐怖が込み上げてくる。──本当は、好きなものなんて何もないんじゃないか?

 しかし、夜の静けさで引き立つ冷蔵庫の低音が、心地良いことに安堵した。

Xboxコントローラがsteamで検出されない/正しく検出されない症状の解決

以前なってめちゃめちゃムカついて発狂して狂仁(くるひと)になってしまったやつ。他の人もなってるっぽいので書きました。

 

該当の症状

  • Windows上では認識されるが、steam上で検出されないか、キーボード等として誤って検出される

 

確認方法

 

解決方法

 

自分の環境

解決しなかった場合などに参考にしてください。

  • OS: Windows11
  • コントローラ: HIT BOX 側面4ボタン

 

あとがき

Qiitaとかでよく見る小刻みにデカ見出し出す方法で書いてみました。でもQiitaだと箇条書きしないよね。まあいいか。

椎間板ヘルニア奮闘記3 ヘルニコア投薬編

 投薬当日。入院手続きを終え、病床に着く。時刻は10時頃。11時頃に投薬の可能性が高い、ということで、すぐに点滴の準備をすることになった。
 前腕の側面の血管に針が刺さる。この瞬間も痛いが、点滴の辛いのは、痛みが続くことだ。針でぐるぐる掻き混ぜられるような痛みと、じんわりとした痛みが交互に襲ってくる。少しの間ならいいが、一体いつまでやるつもりだ? 数時間も針を刺しているなんて正気ではない。いつもの思考に脳が支配される。
 左腕にさながら杭を打たれたように、じっと次の作業を待つ。しかし、待てども看護師は来ない。流石に痛みも治まってきて、飽きた。スマホを貴重品入れにしまったのは失敗だった。この腕には杭が打たれている。ひとたび動かせば、また新鮮な痛みが襲いかかってくる。それは嬉しくない。しかし暇だ。何度か貴重品入れに手を伸ばしたが、痛みに負け、目を閉じ、まどろむことを選んだ。
 あの瞬間、私は確かに死んでいた。針の痛みを恐れ、少しも動けずにいた。スマホという餌を能動的に得ることを諦め、ただ痛みのないように天を見つめる、無気力のマウスだった。
 しばらくして、看護師が来た。点滴の管を液に繋ぐのだ。その前にトイレに行くことにした。するとどうだ、あれだけ起きることを怖がっていたのに、簡単に杭が抜けてしまった。自分でも笑えてしまうが、しかし、仕方ないだろう? 私はずっと、術中の排便を恐れていた。手術を検討していたころは、毎日、「術中にトイレに行きたくなったらどうするんだろう」ということだけを考えていた。用を足したら、なんだか不安になって、二度、トイレに行った。
 トイレを終えて、貴重品入れからスマホを取り出す。11時半。結局、針を刺してから1時間も経っていた。
 作業を再開するため、看護師を呼ぶ。すると、看護師が来るなり口を開く。
「先生が今来ていて、いつですかと聞いたら1時半だと……。だから、点滴は早すぎるので、また後にしますね」
「ええ……」と思わず漏らした。今度は糞ではない。
 しかし点滴を早めに繋がずに済み、脱糞は転じて福を成したといえる。

 二時間の待機。三種の神器スマホ」を使い、時間を潰したが、さすがに手が疲れた。スマホを置き、妄想に耽ることにした。

 こんな病院は嫌だ! 志賀直哉ごっこをする患者
「フェータルなものか、どうか?」

 こんな病院は嫌だ! 太宰治ごっこをする医者
「ちょっとチクッとしますけど、ただ、いっさいは過ぎていきますからねー」
 
 そんなこんなで、投薬の時間が近づいてきた。既に点滴のじんわりとした痛みが心地よくなっていた。もうこの痛みなしでは生きられない。
「母ちゃん、こいつ持って帰ってもいい?」
「いいけど……ちゃんと面倒見れる?」
 見れるわけないだろさっさと抜け。

 時間が来た。看護師二人にストレッチャーで運ばれる。行きはよいよい。仰向けで移動する乗り物を楽しむ。ストレッチャーを上げる作業は少し酔いそうだったが、エレベーターを仰向けで降りるときには得も言われぬ快感があった。
 再びこの透視室に帰ってきた。手術台に移り、右足を下に横になる。背中を消毒される。冷たさも合わさってかなりくすぐったい。体がよじれる。背中の真ん中はくすぐったくないのだが、端の方は、脇腹に近くくすぐったいらしい。
 麻酔を打ち、本命の針を刺す。今回は背中の左側から椎間板の真ん中を狙う。
「神経に刺すつもりはありませんけど、刺したらごめんなさいね」と医者が言う。
 いや、刺すなよ。刺したら恨むからな。言おうかと思ったが、変な念に足を引っ張られて失敗してほしくないので、黙っておいた。
 本命の針もくすぐったくて暴れてヘビニョロニョロ針バーンしてしまうかと懸念していたが、針は普通にただ痛かった。身体の深いところを針で探られる。ブロック注射を入れた時と似た痛みだ。椎間板を目掛けて何度も刺しなおしているのか、あるいは少しずつ進めているのか、感覚だけではよくわからないが、5分くらい続いたと思う。途中、麻酔を追加した。針を動かしていないときは、それほど痛くない。針を進めるときは痛く、たまに神経に近づくような強い痛みがある。椎間板に到達したらしく、上と前から何度かX線で確認して、写真を撮って確認作業は終了した。合図と共に、ヘルニコアが注入される。思いのほか長い。ただでさえ膨張した椎間板が爆発しないか不安になる。
 ほどなく針が抜かれた。終わった。終わったのだ。やった、と息を吐く。肩の力が抜ける。三度、深く呼吸をする。じんわりとした痛みが足の付け根に広がった。汗だくになっていた。頭上のディスプレイを見ると、成人男性の背中を長い針が貫いているあり得ない画像が表示されていた。

 ストレッチャーに移動しようとすると腰に激痛がした。注射したところがぎっくり腰になったような痛みだ。姿勢を変えることが難しい。転がるように、滑って移動した。
 ストレッチャーで病棟まで運ばれる。振動が腰に響く。オタクに優しいギャルみたいな看護師が、「てかカルテ見たんですけど、うちらタメですよ」などと話しかけてきた。うまく答える術を持たなかった私は、「あーほんとですかー」とか言って乗り切った。あまりうまく会話できなかった自信がある。「え、マジ? ウケる」とでも返せばよかったのだろうか。答えはまだ分からない。
 スライダーを使って、ベッドへ移された。スライダーというのはただの板だ。ストレッチャー上でスライダーに身体を乗せ、そこからベッドへ滑り落ちる。使うのがはじめてだったようで、オタクに優しいギャル看護師が「えーおもしろ」と言い放ち、去っていった。
 再び、ベッドに一人。落ち着いたら急に点滴の痛みが蘇ってきた。なんだお前やんのか? いつまで刺さってるつもりだ。

 一時間ほどで痛みは落ち着いた。そのあとは完全に、ぎっくり腰でゆっくり歩く人になっていた。

 夕食はちらし寿司だった。病院食って案外美味いんだな。昼食を摂っていないのもあって、おすましが身体に染みた。

椎間板ヘルニア奮闘記2 ブロック注射編

※2から始まってるのは仕様で、気が向いたら1を書きます(昔配信で話した内容です)。

 色々あって腰椎椎間板ヘルニアを患っている。治療のため、紹介状を持って隣町の大きな病院へ行った。
 MRIとレントゲンのデータを持っていったので話はとんとん拍子で進み、当日、神経根ブロックを打って痛みの原因を確認し、そして二日後に投薬をすることになった。予約はなかなか取れなかったが、しかし取れたらすごいスピード感だ。神経根ブロックは、背中から出た神経に直接麻酔薬をぶちこんで痛みを遮断すると同時に、痛みが取れていればそこが原因だと分かる、という対症療法兼診断の処置。投薬は、ヘルニコアという新しめの治療薬を使う。椎間板の水分を酵素で分解し、収縮させる薬だ。
 診察からはめまぐるしく過ぎていった。コルセットの型を取り、その後、入院のための検査が始まった。投薬治療のために、入院することになったのだ。心電図を撮り、次に採血。検査待ちの人の多さに絶句した。溢れんばかりの人、というか溢れてる。区画から大きく溢れた人に、大量の車椅子。改めて気をつけようと心を引き締めた。
 機械で採血の整理番号を受け取る。私の受付まで百人余りあった。処理能力のあまり高くない採血の待ち行列。一時間くらいかかりそうだ。区画から出て、空いてる席を探し、一息つく。
 持て余した時間で神経ブロックについて調べた。「神経ブロック 体験談」などと検索すると、「仰反るような痛さ」「肘の神経を椅子にぶつけたビリビリ」などと出てきた。仰反るような痛さ……。診察時、神経根ブロックって痛いですか、と聞いたらニヤッと笑って「痛いですよ」と医者が言ったのを忘れない。「神経に針を刺すんだから、これは痛いですよ。」
 やはり一時間ちょっと待って、採血の順番になった。採血は苦手だ。はじめに腕を縛られる。針よりも血を止めるのが気持ち悪い。しかし、針がちくっとして、やはり針も嫌だな、と思った。
 血を抜かれたら、なんだか気分が高揚してきた。しかし針というのは、抜いた後もちくっとして面白い。あんな細い針や傷を認識できるなんて、人間のセンサーはよくできている。でも、針がチクっとで済むくらい鈍いセンサーで良かった、とも思う。全身の感覚が無茶苦茶鋭敏な宇宙人が「全く鈍い種族め! 我々の方が感覚が鋭い上位存在だ!」とか言ってきても何も羨ましくない。もうちょっと鈍くありたいくらいだ。

 諸々が終わり、遂に神経根ブロックの時が来た。検査着に着替え、点滴を刺され(とても嫌だ)、車椅子で運ばれる。神経根ブロックは、脊柱管から出る神経の根本に針を刺すため、X線透視下で行われる。検査台、いや今は手術台か、の上に乗り、うつ伏せになる。背中の真ん中より少し右側から、針を狙う。
 麻酔はちくっとするくらいだった。これはみんな知ってるか。本命の針も最初は同じようにちくっとした。その後ぐっぐっと、針で押されるような痛みが続いた。体の内部を探られるような、押されるような感覚。痛みで息が漏れる。十秒か、三十秒くらいか。針が神経に達すると、信じられない痛みがした。右足全体の神経が張るような、足全体が攣るような、全部の筋肉を限界を超えて総動員しているような感覚がずっと、一律に続く。仰け反る痛みというより、強制的に仰け反らされているような感覚。声を上げずにはおれず、「これやばいです」と連呼した。針先が神経に刺さっているのみだが、しかし、神経の根本から先端まで串刺しにされているような心地がした。
 五秒か十秒かした後に麻酔が注入される。麻酔を注入して一秒かその半分かくらい経つと、すごく重い感覚の後に、痛みがすうーっと消えていき、ずしりと足が重くなった。魔法のような感覚に、「お〜これすっごい」と言ったら笑いが起こった。
 力みすぎたのか、点滴が逆流して管が真っ赤な液体で満たされており、「わーお」と聖園ミカになったが、即座に、これは問題ないですからね、と王子様のお付きに返された。
 診察室で横になり、点滴を睨む。やはり点滴が一番嫌だ。ずっとじんわり痛い。いや冷静に、血管に管通すなよ。頭がおかしい。

 しばらくして、気分が落ち着いた。全身穴だらけだな、と思った。

 帰り道、書きなぐったメモを整理しようと思っていたが、全然気が乗らず、適当にTwitterを見て時間を潰した。検査前は執筆が本当に捗る。終わるとダメだ。検査前の緊張感と嫌悪感が丁度良い。作家は常に検査すべきだ、と思う。一日五回くらい採血したらいい。
 結局、家についたのは五時近くであった。望まない一日仕事にため息が出る。


次回、ヘルニコア編(予告)