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あええええばぶばぶ

インターネット投げ銭分化と「支援する」ボタンが好きじゃない

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 「支援する」ボタンが好きじゃない。画面にでかでかと表示されると邪魔。楽しんでるときに金の話をされると冷める。──というのもあるけれど、よくよく感情を分析してみると、表示法どうこうというよりも、そもそも支援行為自体が好きじゃないらしい。
 なぜだろう。クリエイターへの支援は昔からある。ルネサンス期の支援は特に有名だ。メディチ家をはじめとするパトロン達の援助がルネサンスを支えた。ルネサンス期における画家のパトロンや、あるいはパトロネージュという行為に対しては何の違和感もない(宗教的な背景があるので現代の価値観で考えるのはおかしいかもしれないが)。しかしどうして、現代におけるパトロネージュには大きな違和感を抱くのだろう。

 簡単な思考実験をしてみる。好きなクリエイター数人に対して、自分が支援することを考える。YouTubeのスーパーチャットのようなインターネット投げ銭、pixiv Fanboxのような月額制会員制度の二通りの方法で支援をする。そこで、自分がお金を出してもいいと思える条件を考える。
 すると意外なことに、お金を差し出すことに対してはあまり抵抗がないようだ。「このお金が活動費になるなら(自分の生活に支障のない範囲で)いくらでもどうぞ」というのが僕の感情の出す結論らしい。活動費になる、というのが大事な条件で、既に大金を抱えているクリエイターを支援する気にはならなかった。また、ギャンブルや一時の享楽のようなものに使われるとすると、それも嫌なようだ。真面目だなコイツ。まあ、自分の出した金なのだから、自分の思い通りに使わせたいという心理が働くのは妥当だろう。

 さて困った。そうしたら、この違和感はどこから来るのだろう。皆が皆ギャンブルをやってるわけでもあるまいし……あるまいか? なんだかやってるような気もするが、ともかく、原因があるとしたら逆の行為なのだろう。つまり、お金を受け取る行為に対して違和感を感じているということになる。では今度は逆に、お金を受け取ることを想像してみよう。
 これを考えた途端に心がざわついた。金がほしい、くれるもんならいくらでもくれ、という卑しい感情がみるみる湧いてきた。卑しい自分にムカついたので少し想像を具体的にしたら、今度はこのお金を受け取っていいんだろうか、という得体のしれない恐怖が浮かんできた。やはり適当に考えても埒が明かないので、ちゃんと思考実験をする。先ほどと同じ実験設定で、自分が支援される側となり、お金を受け取れるかを考える。
 まず、インターネット投げ銭に関してだが、これは受け取れないと思った。はっきり言って構造がおかしい。お金を受け取っておいて名前を読み上げてお礼を言って終わりか。「スパチャありがとうございます!」などと礼を言うのはいいが、その言葉に何の価値があるのか。そしてそれを全世界に配信してどうするのか。お礼では釣り合わないし、お礼を言うにしてもその人ただ一人に対して言わなきゃな。
 少し脇道に逸れるが、ここでぼくが混乱したのが、現実世界での投げ銭との違いだ。実はぼくは路上パフォーマンスが結構好きで、いいなと思ったら軽いノリで投げ銭したいタイプだ。考えたところ、どうやら投げ銭の是非を分けるのは、投げ銭する対象がパフォーマンスなのかただの配信なのか、ということのようだ。パフォーマンスに投げ銭するのはありだが、ただの配信(=人そのもの)に投げ銭するのは違うな、という感覚があるようだ。だからネット配信であっても、RTA in JAPANのようなパフォーマンスの配信に対して投げ銭するのは全く違和感がない。
 話を戻して、次に、月額制支援に関してだが、これは特典によるようだ。自分が金額に見合うコンテンツをメンバーに限定公開できるのなら堂々と受け取る。そうでなくて、コンテンツはオマケで支援が主となる形態なら受け取れない。
 支援される側の思考実験を通して卑しい自分を思いとどまらせたのは、お金を受け取る以上相手個人に価値を返さなければならないという考えだった。月額制は毎月のコンテンツに対する対価だし、投げ銭はパフォーマンスに対する対価だ。財に対してお金を頂くのであって、自分という人を支援するお金は頂けない。お金を貰えるのは嬉しいけれど、しかし対価なしに受け取るのは誠実じゃない。

ここまで考えると、一つ目の結論がひっくり返ってくる。自分が他人を支援するのは構わないけれど、それを受け取る相手は誠実じゃない。逆説的だが、自分が支援したい相手は、それを受け取った瞬間に支援したい相手ではなくなる。これはぼくが真面目すぎるからかもしれないけど。

インターネットの支援に関するぼくの結論。
「もらえるならもらっておこう」は誠実じゃない。お金を払いたい人はいくらでもいるかもしれないけれど、だとしてもちゃんとした形のものを売ってその対価としてお金を受け取るべき。払う側は気持ちで払えるんだけど、受け取る側は何のお金として受け取るの? っていう話。
誠実でありたいから、そういうことはしない。仮にそういう立場になっても、気持ちには気持ちで返したいし、お金にはサービスで返したいね。そんな感じ。

 

 

 

……果たして、ルネサンスにおいて画家はパトロンに誠実だったろうか。こんな価値観は現代の市場や貨幣経済に縛られたものじゃなかろうか。価値(財)とお金の交換というのはこの社会の原則だけど、常にそれが成り立つわけじゃない。

お金を渡していいことをした気分になって、それが幸せって人もいる。それって宗教*1と同じ構造に見える。お金を払っても見返りはない。徳を積めるとかそういうのはあるかもしれないけど、社会で認められる実体としてはない。だけど払う人がそれで幸せならそれでいい。それも一理ある。人間って愚かだね。でも愚かな方が救いがあるのかもしれない。宗教と考えると、人に支援するのも悪くはないな。

 

*1:でかすぎ概念。市場から切り離されたもの程度の意味で使ってるので危険である