をれをずブログ

あええええばぶばぶ

忘年会

 年の暮れ、私は関わりの薄い人たちとの忘年会に参加する羽目になった。
 羽目になった、というのは変な言い方だが、本当に、参加する気はなかった。というのも、参加者の半分は知らない人で、もう半分はよく知らない人だからだ。忘年会の報せを見て、はじめは知らんぷりをしていたが、しかし、二週間ほどまえ、幹事から連絡があり、やむなく、参加することにした。今思えば、予定を捏造してしまえば済んだ話で、参加する必要などなかったのだが、しかし、断るのも心苦しく、くわえて事務的な用事もあったため、無謀にも、参加してしまった。
 そして、あえなく撃沈した。

 私は落ち込んだ。そして、ひどく恐ろしい気持ちに襲われた。
 忘年会を楽しめなかったことにではない。それ自体は、私に問題がある。人見知りなこと、主張が弱いこと、話を振らないこと、などなど、反省点はいくつもあるし、改善すればもっと良く振る舞えるだろう。それに、そもそも関わりが薄いうえ、気質が合わないなど、見込みの薄い場でもあった。だから、問題はそこではない。
 ここ4年ほど、私のテーマは人だった。モノから人に、重点を移して行動してきた。モノなどどうでもよく、大事なのは人なのだと、信じて疑わなかった。でも本当に人が好きなのか、人とのコミュニケーションが好きなのか、ということに疑問が生じた。本当は人とのコミュニケーションなんて全然好きではないのではないか。
 一方的に話すことが好きなだけなのではないか。まさに今こうしてパソコンに向かっているように。そしてひとしきり話したのちに、こちらもまた一方的に話を聞くのが好きなだけなのではないか。
 あるいは表面的な話が好きではないのか? 深い話、あるいは互いに知識のある話だけが好きなのか? それすらも反動や、嫌いなものとの比較でそう思い込んでいるだけではないのか? わからない。全然わからない。わかっていたつもりの自分が打ち砕かれて、全然分からなくなってしまった。結局自分は何が好きなんだろう。わからない。モノが好きじゃなくて、人も好きじゃなかったら一体自分は何が好きなんだろう。何を求めて生きていけば良いんだろう。かつて感じた、無味乾燥な人生が続くことに対する恐怖が込み上げてくる。──本当は、好きなものなんて何もないんじゃないか?

 しかし、夜の静けさで引き立つ冷蔵庫の低音が、心地良いことに安堵した。