をれをずブログ

あええええばぶばぶ

日本の学年式教育の残酷さと、量産される勉強嫌いな大人

 生まれた時から今に至るまで、母は底辺校の教員だった。小さい頃から、様々な生徒の話を断片的に聞いた。一口に底辺校と言っても生徒のレベルは様々で、公立大学に行ける生徒から、四則演算ができない生徒まで存在する。四則演算ができない、あるいはそれに類するような生徒たちは、あまり良い高校生活を送っているとはいえない。色々なパターンがあるが、典型的には、赤点を取り、登校しなくなり、転学する。    
 さて、九九すら怪しいような彼らが、何故高校にいるのだろうか? それはひとえに、中学校を卒業できてしまうからだ。小中学校の卒業要件に九九の試験はない。だから、勉強しなくても卒業できてしまう。このような生徒は高校になってはじめて、勉強という壁にぶち当たる。九九という段差を乗り越えたことのない子どもが、因数分解まで大きくなった段差、いや、崖にぶち当たる。

 勉強しなくても卒業できる学校制度を、君はどう思うだろうか。

 別の話をしよう。
 私は進学校にいたけれど、それでも勉強が嫌いな生徒が大半だった。高校生の私にはあまり理解できなかった。勉強がめんどくさいとこそ思えど、嫌いだと思ったことは一度もなかった。新しいことを知り、理解する行為を、どうしたら嫌いになるのか分からなかった。みんななんとなく、周りに同調して言っているんだろうと思っていた。
 大学生になって、彼らの気持ちは、少し分かった。分からないまま進んでいく不快さ。自分のペースで勉強できない不快さ。さらに自分の実力や容量をはるかに超えた要求をされる苦痛を知った。私が高校生のころ勉強を一度も苦痛に感じなかったのは、快適にこなせるだけのバッファがあったからだ。幸い私は、一般的な勉強と大学の勉強を切り分けるだけの知恵があったが、しかし、大学の勉強は嫌いになった。

 勉強できなくても進級できる学校制度を、君はどう思うだろうか。
 私は残酷だと思う。

 いまの日本の教育では、みんな仲良く一学年ずつ、誰も落第せずに進んでいく。一見幸せに見えるこの景色の中で、残酷なことが起きている。この教育の最大の欠点は、一度ついていけなくなると、一生ついていけなくなることだ。何かのきっかけで一度ついていけなくなっても、そのまま次に進んでしまう。当然、今度はますます分からない。だけどまた進み、進級し、何も分からないまま、やがて卒業する。落第のほうがよほど優しい。
 本当は彼らを卒業させてはいけないのだ。進級させてはいけないのだ。それは彼らのための行為に見えて、その実、彼らから勉強の機会を奪っていることに他ならない。そしてそれは結果的に、50分を6コマ、毎日5時間机に縛り付け、わけの分からない話を聞かせる状況を作ることになる。実質的な勉強の機会を奪っておきながら、形式的な勉強を押し付ける。生徒は毎日5時間かけて、勉強のつまらなさを学ぶだろう。社会による虐待といっていい。
 高校も例外ではない。高校の試験は、生徒を合格させるために簡単な問題が30点分用意されている。仮に赤点になったとしても、追試で必ず合格させるようにできている。流石に四則演算ができないレベルでは普通科を卒業するのは難しいが、ある程度は掬われるようにできている。落第があるようで、実際は小中学校とほとんど同じ構造だ。
 制度上は落第が存在する高校でも、生徒を卒業させるように力が働く。なぜか。このようなケースでは、高等学校は教育機関ではなく一種のキャリアパスとして働く。つまり、生徒に高卒資格を与えるだけの機関と化す。社会がそのように要請しているからだ。社会が勉学経験の有無に関わらず、高卒資格の所持を要求する。
 そういった生徒の進路が大学でなければまだいいが──いや大学でないとしても、ただ学校で腐らせておくだけの時間に意味があるのか──そもそも────

 話が逸れたが、本題は、画一的な学年式教育はやめようということだ。この方式では落ちこぼれが発生し、勉強が嫌いになってしまう。解決策は、単純には単位制だろう。単位制は、上記の問題を概ね解決する。
 単位制にすることで、勉強したくない子どもがいつまで経っても学校に行かないとか、20歳になったのに中学校も卒業しないとか、そういったことも起こるだろう。遊んでないでさっさと勉強しろ、と言いたくなると思う。しかし、そのような子どもに対しては、無理に押し付けるのではなく、待ってあげるべきだ。一度社会経験を積んでから、20歳で中学卒業。そういうルートも大いに結構。大事なのは早く学ぶことではなくて、自分のペースで学ぶことだ。社会経験から、あるいは遊びの経験から、いつか内発的動機が出てくるだろう。それを待ってあげたい。待ってあげるべきだと思う。勉強が嫌いにならないよう、自分のペースで学ばせてあげたい。それが結果的には、学校で勉強を終わらせない、生涯に渡って学び続ける精神を育むのだと思う。