をれをずブログ

あええええばぶばぶ

絶望の起床

絶起。絶望の起床の略。理系の大学生がやたらと使うこの言葉を最近聞かなくなったのは、言葉が廃れたのか、単に自分の周りが歳をとったからだろうか。あるいは、リモートが増えて絶起が減ったということなのかなあ。ぼくが使わなくなった理由は、リモート要因と、言葉に飽きたから、というのが大きそう。絶起は、言うなればただの寝坊で、それを大げさに言うのがきっと面白いんだけど、さすがに一生言ってたら飽きちゃったなあ。

ちかごろ、ぼくは絶起に悩まされている。というのは、ただの寝坊のほうじゃなくて、起床時に真の意味で絶望している。朝、強烈な嫌悪感に目を覚ますと、あまりの絶望に体が全く動かなくなっている。目を開けるのも嫌で、今にも吐きそうで人生を諦めたくなるのを、うずくまってただ耐える。唐突に重い話をするが、ぼくとしてもすごく突然なことだったのだ。まるで悪夢のような感覚なのだれけど、たしかに目覚めていて、じゃあなんだ、悪現とでも言えばいいのか分からないけれど、とにかく、心の底から絶望して起きるのだ。

はじめてこれを体験したときは、「やりたくない」という言葉とともに絶望していた。何がやりたくないのかも分からなかったが、とにかくやりたくない、やりたくない、という気持ちに支配されて、助けてくれ、ドラえもんドラえもんと10分くらい苦しんでいた。そのうちに気持ちがすうっと抜けていって、穏やかな普通の朝になった。当時、タスク過多だったのが効いたのかなあ、と思っている。この苦痛には耐えられない、死んでしまうと直感で感じて、それ以来、無理はしないようにしよう、と決めた。一種のトラウマ*1に近い。

それがまた、今朝起きた。今度は、「楽しいことが何もない」という言葉が頭にずっと浮かんだ。これはぼくがこの1年半、ずうっと言っている言葉で、すごく実感があった。「楽しいことが何もない。」。「楽しいことが何もない。」。本当の自分の感情に感じて、いや確かにそうなのだけれど、二度と払拭できないように思えてすごく怖かった。
大きすぎる絶望を抱えきれなくて、吹き飛ばしてやろうと考えた。二つか三つ、好きで大切なはずなものを思い浮かべた。でも、どれも好きだと全く思えなかった。何を思い浮かべても、好きだった気持ちは分かるのに、全く好きだと思えないし、興味がわかないし、感情が何も動かない。本当に何も思わなくて、二度と好きと思えなくなるんじゃないかと怖くなって、これはやめた。
「楽しいことが何もない」と絶望の中で身体を震わせ続ける。やはり耐えられないと思った。この気持ちには、この人生には耐えられない。こんなに苦しいことをいつまで続けるのか? いつまで続けられるのか? まあ、めちゃくちゃ痛い怪我もなんだかんだ耐えられるから、少なくとも二週間くらいはいけるのだろうけど。でも、痛みを耐えられるのは、いつか終わるからであって、もし、もしこれが、人生が終わるまで続くとしたら──

考えているうちに、絶望はまたすうっと消えていった。改めて好きなものを思い浮かべると、こんどはちゃんと好きだと思えた。それがすごく愛おしくって、心のなかでぎゅっと抱きしめた。

絶望から起きたぼくには、やはりまた決意があった。人生を楽しく彩らねばならない。そう強く感じ、決意した。
このまま人生をなあなあに進めていったら、きっとこの絶望は、完全にぼくのものになるのだろう。そうならないうちに、少しでも人生が楽しくなるように工夫をする。そうしなければ、きっと、死んでしまう。決意といっても、必要に迫られた悲壮な決意なんだけど。


本当にダサいと思う。つくづくこのブログもダサい。必要に迫られないと楽しくもなれない人間だったなんて。ところで、関西のシマウマはトラ柄らしい*2

*1:ところで、「トラウマ」って「シマウマ」よりずっと動物っぽいと思う。

*2: