をれをずブログ

あええええばぶばぶ

オンラインの大学は辛い部分だけが残った大学だと思う

 オンライン大学の本質は、辛い部分だけが残った大学だと思う。

 

 

 新型ウイルスが流行した今年度、その大半を自宅のデスクに向かって過ごしていた。分野柄、研究の大部分がコンピュータだけでできてしまうから、必然的にそうなった。そのせいで運動不足がたたってぎっくりびっくり腰腰を何回もやってしまったんだけど、それはおいといて。

 

 夏になり、緊急事態宣言が解除されると、登校許可が降りた。けれども、感染リスクのある中、自宅でできる作業を誰が大学でやるだろうか。そんな連れション精神はみな高校生で卒業してしまった。結局、研究室に人は戻らず、状況は何も変わらなかった。

 

 更に一月、二月と経つと、ぼんやりと違和感を感じるようになった。その正体がなかなか分からなくて困っていたけれど、年が明けてからやっと分かった。

 

 二月頭。卒論の締切が迫っていた。それから二週間、締切まで可能な限り研究に費やした。ギリギリまで書いて、当日まで推敲して、やっと卒業論文を提出した。した。したんだよな。したんだけど、なんだか空っぽになってしまったような、すごく虚しい気持ちに包まれた。

 

 自分の気持ちに戸惑ったのを覚えている。もっと晴れ晴れした気分を期待してたんだけど、ちょっとキミ、もっと嬉しそうにしたらどうなの、なんて心の中でツッコミをしていた。あまりに気分が上がらないものだから、からかってくる幼馴染を想像上に召喚して、ちょっとキミー、ねえねえ、顔が暗いぞー? なんてベッドに寝転がって想像してた私は、たぶんニヤニヤしててけっこうキモかったと思う。

そうこうしているうちに、あることが思い浮かんだ。そういえばこの感覚、夏にもあったような──

 

 そうだ。前のあの違和感と同じだ。それに気づいてからは早かった。この感覚は決まって発表後や院試後、山場の後に現れていた。そしてこの気付きは、卒研発表で確信へ変わった。

 

 

 つまりこういうことだ。

 

 研究のほとんどは、つらい。卒研発表もそうだった。

 

 発表準備は、つらい。構成をああでもないこうでもないと試行錯誤して、資料を用意して、整えて、ボコボコにされないかと怯えて、作り直して、練習して……。自分の研究を理解していないんじゃないかという疑念と、常に戦うことになる。

 当日は当日で緊張するし、トイレに行きたいし、発表中お腹痛くならないかなあとか心配で、何度もトイレに行かなくていいようにベストタイミングを図ったり……私だけ?

 

 仕方ないから頑張って発表するけど、発表しても何もないんだ。

 素晴らしいと表彰される訳でもない(これは私が悪いけど)。発表は淡々と終わるし、じゃあ帰り道は同期と愚痴りながら帰ろうかというと、オンラインだからそれもできない。廊下にたまることもできない。一緒にご飯に行くことも? 飲むことも? 打ち上がることも? できない。そう、オンラインならね。

 

 ああ、ただただ辛い部分だけが残ってるんだなあと、そんなことを実感した。

 

 仲間と過ごす楽しさを失った、むきだしの苦行。それが、オンラインの大学なんじゃないのかなあ。

 

 

 学生実験で、実験後にレポートやりたくね~と班員と駄弁ってたのが懐かしい。戻りたいなあ。いや戻りたくはないけど。二度とやりたくはないけど。